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このような反乱が起きているにもかかわらず、アウラングゼーブはデカンで戦い続け、[[カルナータカ地方]]という広大な面積の地方を帝国に併合しようとした<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.385</ref>。南インドに逃げたマラーターには[[ズルフィカール・ハーン]]を差し向けて、[[1690年]][[9月]]からマラーター王国の拠点[[シェンジ]]を包囲させていた([[シェンジ包囲戦]])<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.385</ref>。
 
[[1698年]]1月、帝国軍は8年間包囲したシェンジを落とし、ラージャーラームは南インドからデカン地方の[[サーターラー]]へと拠点を移した<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.385</ref>。その後、アウラングゼーブはマラーターを追い、[[1699年]]12月にはサーターラーを包囲し、[[1700年]]4月にこの地を落とした([[サーターラー包囲戦]])。
 
この間、3月にマラーター王ラージャーラームが死亡し、その息子[[シヴァージー2世]]がマラーター王となった。アウラングゼーブはマラーターとの戦闘を片すことが出来ると期待したが、彼を擁する摂政であり母后の[[ターラー・バーイー]]は有能な人物で、マラーターを率いて帝国軍から奪われた砦を次々に奪回した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.254</ref>。だが、アウラングゼーブは[[ジハード]](聖戦)を宣して包囲戦の指揮を自ら取り、買収と武力で圧迫して次々と落し、取戻していった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.243</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.254</ref>。彼はすべてのマラーターの城を奪取するつもりであった<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.385</ref>。
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