「野辺山高原」の版間の差分

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{{Infobox 山
|名称= 野辺山高原 
|画像=[[File:Nobeyama highland from Mt.Yatsugatake 01.jpg|280px]]
|画像キャプション = 八ヶ岳山頂から見た野辺山高原
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== 歴史 ==
<!--『中部II』27ページより-->
野辺山高原は、[[近世]]初期まで[[家]]や[[集落]]がまったくなく、佐久甲州街道(現在の[[国道141号]])と[[棒道|信玄の棒道]]が通るのみであった。そこで、[[江戸幕府]]は[[1606年]]([[慶長]]11年)に板橋村、[[1686年]]([[貞享]]3年)に矢出原新田を置き、[[冬]]の[[交通]]と[[旅人]]の[[安全]]の確保の任務を負わせた。村の[[農家]]は「とうね」(当歳馬=[[馬齢]]0歳の馬)を主に生産し、[[明治時代]]に[[軍馬]]の生産が奨励されると飼育頭数は急増した。[[1886年]](明治19年)には川上村原と南牧村海尻に牛馬競売市が開かれ、翌[[1887年]](明治20年)には両者を統合して海ノ口市場ができた。[[島崎藤村]]の『[[千曲川のスケッチ]]』には当時の海ノ
口市場の賑わいが描かれている。また、2,500[[ヘクタール|ha]]の海ノ口牧場([[1900年]]〔明治33年〕開設)を始めとして相次いで牧場が造られた。
 
<!--『中部II』28ページより-->
[[大正時代]]に入ると[[キャベツ]]や[[水稲]]栽培が試みられたが、多くの農家は馬の飼育と自給的農業を主に営んでいた。商業的農業が始まるのは、[[1934年]](昭和9年)に[[菅平高原]]で栽培技術を学んだ若手開拓者らによる[[ハクサイ]]の試作が成功してからである。翌[[1935年]](昭和10年)に野辺山高原蔬菜出荷組合が35名の組合員で組織され、[[1938年]](昭和13年)には大滝農場が開かれ、[[養豚]]や[[ジャガイモ]]・[[トウモロコシ]]の栽培が行われるなど、商業的農業は拡大するかに見えたが、[[第二次世界大戦]]に突入したことで商業的農業は中断した。[[1941年]](昭和16年)に[[文部省]]の学校連合訓練所が、[[1942年]](昭和17年)に[[大日本帝国陸軍]]東部51部隊の野辺山演習地が開設され、[[1945年]]
(昭和20年)には学校連合訓練所が[[三重海軍航空隊]]の[[特別攻撃隊|特攻隊]]訓練に使われるなど[[軍事]]色が強まった。
 
終戦後の1945年11月には「[[戦後開拓|緊急開拓事業実施要領]]」に基づき、約170世帯が入植し、自給的農業に従事したが、厳しい[[気候]]条件と恵まれない[[土壌]]のため、開拓農家は約2年で50世帯まで減少した。<!--以下、『中部II』29ページより-->そこで、7つに分かれていた開拓組合は[[1948年]](昭和23年)に野辺山開拓農業協同組合に一本化された。[[1949年]](昭和24年)の青果物統制の廃止、[[1950年]](昭和25年)の[[朝鮮特需]]の後押しもあり、商業的農業が復興を果たし、[[ダイコン]]の栽培が増加した。[[野菜]]の栽培に使う[[堆肥]]を得るため、[[1953年]](昭和28年)に[[ニュージーランド]]から14頭の[[ジャージー種]]([[乳牛]])が輸入された。同年、振興対策事業が始まり、[[野辺山駅]]前の46
戸が計画的に移転し、[[散村]]景観を呈するようになった。[[1960年代]]後半より[[牛乳]]価格の下落により[[酪農]]は衰退するが、野菜栽培は増加を続け、野辺山は日本を代表する高原野菜産地となった。
 
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 丸山浩明(2000)"八ヶ岳の高原野菜産地 長野県南牧村野辺山"『中部II 地図で読む百年 長野・新潟・富山・石川・福井』([[平岡昭利]]・[[野間晴雄]]編、[[古今書院]]、2000年7月15日発行、ISBN 4-7722-5048-4):25 - 30.[[
 
== 関連項目 ==
* [[八ヶ岳]]
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== 外部リンク ==
* [http://www.ytg.janis.or.jp/~nobeyama/ 野辺山観光案内所]
 
{{DEFAULTSORT:のへやまこうけん}}
[[Category:日本の高原]]