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二林史夫 (会話 | 投稿記録)
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{{複数の問題|独自研究=2015年10月13日 (火) 18:07 (UTC)|出典の明記=2015年10月13日 (火) 18:07 (UTC)|正確性date=2015年10月13日 (火) 18:07 (UTC)}} {{政治家
|人名 =胡耀邦
|各国語表記 =
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その死が[[六四天安門事件]]の引き金となった<ref name="asahi20151121m11">朝日新聞(2015年11月21日朝刊)11面「生誕100年 習主席『偉大な革命家』胡耀邦氏を再評価 民主化問題触れず」</ref>。
 
== 総書記選出までの経歴 ==
=== 「実権派」 ===
{{出典の明記|date=2015年10月13日 (火) 18:07 (UTC)|section=1}}
=== 「実権派」 ===
[[1933年]]、[[中国共産党]]に入党。中華人民共和国の建国後は、[[中国共産主義青年団]](共青団)第一書記、[[陝西省]]党委員会第一書記などを歴任したが、[[文化大革命]]が始まると[[1967年]]に実権派と批判されて失脚。後に党主席となる[[華国鋒]]は、胡耀邦が[[湖南省]]党委に下放された時の部下だった。
 
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なお、中曽根が[[1985年]]に[[靖国神社]]を[[公式参拝]]した後、その翌年から靖国参拝を取り止めた理由を、「(私の靖国参拝によって)親日派である胡耀邦が中国共産党内の批判にさらされて失脚する可能性があったからだ。それはどうしても困ることだったから」と述べている。もっとも趙紫陽は後述する政治改革の行き過ぎが鄧小平との不和を招いたとしており、そうした権力闘争の中で胡の親日姿勢が利用されたという側面が強い。
 
=== 失脚 ===
胡耀邦の政治改革は、保守派の巻き返しにあい、[[1986年]]9月の第13期6中全会で棚上げされた。逆に同会議において保守派主導の「精神文明決議」が採択され<ref name="maeda79">前田(2014年)79ページ</ref>、胡は保守派、[[八大元老|八大元老(長老グループ)]]らの批判の矢面にさらされた。こうした状況を背景に、[[安徽省]][[合肥]]から始まった学生デモは[[北京市|北京]]、[[上海市|上海]]など全国に波及。[[方励之]]、[[劉賓雁]]、[[王若望]]らの党員知識人が学生デモを積極的に支持した。
 
鄧小平は第13回党大会で[[中国共産党中央顧問委員会|中央顧問委員会]]主任を引退し、胡耀邦に後を継がせて世代交代を図ろうとしていたが、顧問委員会が主催した民主生活会で胡耀邦は保守派、改革派を問わず延々と批判され、ついに[[1987年]][[1月16日]]の政治局拡大会議で胡耀邦は総書記を解任された。この会議には[[陳雲]]ら党長老が出席し、全会一致で胡耀邦の解任と趙紫陽が総書記代理に就任することが決まった。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]自由化」に寛容だったため、さらには独断で[[日本]]の青年3千人を招待したことも挙げられた。11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に正式に選出された。失脚後の胡耀邦は政治局委員に残留したものの、会議等でもほとんど発言しなかったといわれる
 
失脚後の胡耀邦は政治局委員に留まり、党内改革を呼びかけたが、1987年11月の中共13期1中全会で政治局員に降格となった<ref name="inagaki103">稲垣(2015年)103ページ</ref>。
=== 死とその影響 ===
 
[[1989年]][[4月8日]]の政治局会議中に[[心筋梗塞]]のため倒れ、[[4月15日]]に死去した。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。[[五・四運動]]の70周年記念日にあたる[[5月4日]]には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、[[六四天安門事件|第二次天安門事件]]へと発展した。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。
==胡の死去と第2次天安門事件==
[[1989年]][[4月8日]]の政治局会議中にで熱弁を振るった直後、[[心筋梗塞]]のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、[[4月15日]]に死去した<ref name="inagaki104">稲垣(2015年)104ページ</ref>。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった<ref name="inagaki104"/>。[[五・四運動]]の70周年記念日にあたる[[5月4日]]には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、[[六四天安門事件|第二次天安門事件]]へと発展した。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。
 
胡耀邦は国民から愛された開明的指導者だった。長老・保守グループの批判、さらには鄧小平の政治的引き締めの要求にも応じなかったため最後は解任されたが、中華人民共和国はその大きなツケを天安門事件として支払うことになった。