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|Prev_IRL_Pos =
|Best_IRL_Pos = 1位 ([[1993年のインディカー・シリーズ|1993]])
|First_IRL_Race = [[1993年のインディカー・シ
|Last_IRL_Race = [[1994年のインディカー・シ
|First_IRL_Win = 1993年サーファーズ・パラダイス
|Last_IRL_Win = 1993年[[ナザレス・スピードウェイ]]
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}}
'''ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル'''(
[[2014年]]現在、[[フォーミュラ1|F1]]と[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]のチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。
[[1990年]]には[[大英帝国勲章]]・オフィサー章(OBE)を、[[2012年]]には同・コマンダー章(CBE)を受勲。[[2005年]]に[[国際モータースポーツ殿堂]]({{lang|En|''The International Motorsports Hall of Fame'' }})入り。
愛称は'''「マンちゃん」'''、'''「荒法師」'''、'''「[[暴れん坊将軍]]」'''。
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[[アラン・プロスト]]、[[ネルソン・ピケ]]、[[ケケ・ロズベルグ]]、[[アイルトン・セナ]]らと並んで、[[1980年代]]のF1を代表する名ドライバーの1人。特に1980年代後半から[[1990年代]]初頭にかけてライバル関係にあったピケ、プロスト、セナとは、まとめて「'''[[四強 (モータースポーツ)#F1における四強|四強]]'''」もしくは「'''F1四天王'''」と呼ばれることもある。
F1歴代6位の通算31勝を記録するも、ドライバーズチャンピオン獲得は1992年の1度のみに留まった。何度かタイトル争いに絡みながら、その度にタイヤバーストなどの不運や怪我、ミスに泣き、チャンスを逃がし続けたことから、母国の先輩[[スターリング・モス]]になぞらえ「'''[[無冠の帝王]]'''」と称された時期もある。ただマンセル本人はこのフレーズを気に入って自称もしていた<ref>『F1サーカスのヒーローたち』
イギリス中部の地方都市の労働者階級の家に生まれ、持ち家を売り借金を重ねながら妻ロザンヌとともに苦労して頂点まで上り詰めた、苦労人タイプのドライバーである。豪快かつ大胆なドライビングスタイルと、喜怒哀楽に富む人柄が人気を博し、「'''大英帝国の愛すべき息子'''」
== プロフィール ==
=== F1以前 ===
[[イングランド]]の[[ウスターシャー]]州に生まれ、成人するまでを過ごした。マシュー・ブルトン・カレッジで工学を学び、卒業後はフルタイムのレーシングドライバーに転身するまでルーカス・エンジニアリング
|last=Davis
|first=Gareth
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}}</ref>。
10歳から[[レーシングカート
=== ロータス時代 ===
[[ファイル:Mansell Lotus 95T Dallas 1984 F1.jpg|thumb|240px|right|[[ロータス・95T]]をドライブするマンセル(1984年)]]
1980年のF1第10戦[[オーストリアグランプリ
しかしロータス在籍時のマンセルは[[エリオ・デ・アンジェリス]]の陰に隠れ、後に「暴れん坊」といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる。しかも理解者でもあったチャップマンが[[1982年]]12月に急逝してしまい、その後を継いだ[[ピーター・ウォー]]とは非常に折り合いが悪かった。チャップマンが遺した[[アクティブサスペンション]]の開発を担当し、[[1983年]]の前半戦はアクティブカーの[[ロータス・92|92]]で出走した。
[[1984年]]の第6戦[[モナコグランプリ
結局、ロータス在籍実質4年で幾度か表彰台には登るが勝利を得られず、新鋭[[アイルトン・セナ]]の加入により押し出される形でチームを去った。モナコ
=== ウィリアムズ時代(第1期) ===
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[[ファイル:Nigel Mansell 1988 Canada.jpg|thumb|240px|right|[[ウィリアムズ・FW12]]・ジャッドをドライブするマンセル(1988年)]]
[[1985年]]には[[ホンダF1|ホンダ]]エンジンを搭載するウィリアムズへ移籍し、[[ケケ・ロズベルグ]]のチームメイトとなる。第7戦[[フランスグランプリ
[[1986年]]にはウィリアムズに2度のチャンピオン経験者である[[ネルソン・ピケ]]が加入。しかしマンセルとはそりが合わず、チームメイトというよりもライバルとして意識しあう。マンセルはピケ、[[マクラーレン]]の[[アラン・プロスト]]と三つ巴のチャンピオン争いを展開。最多の5勝を挙げ、最終戦[[1986年オーストラリアグランプリ|オーストラリア
[[1987年]]は、母国での第7戦[[1987年イギリスグランプリ|イギリス
[[1988年]]はホンダが[[マクラーレン]]へのエンジン供給に切り換え、ウィリアムズは非力で信頼性に乏しい[[ジャッド]]エンジンでの戦いを余儀なくされる。アクティブサスペンションの不調もあり、チームメイトの[[リカルド・パトレーゼ]]とともに苦戦を強いられた。出走14戦([[水
=== フェラーリ時代 ===
[[ファイル:Nigel Mansell 1990 USA.jpg|thumb|240px|right|フェラーリのピットにて(1990年)]]
[[1989年]]からは、[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へ移籍。前年に続きマクラーレン勢が優勢であったが、開幕戦[[1989年ブラジルグランプリ|ブラジル
[[1990年]]にはベルガーが去り、プロストがチームメイトとなる。第3戦[[サンマリノグランプリ
しかしイタリア語が堪能なプロストが順調な成績を収めてチームの主導権がプロストに移ってゆくと、良好だったプロストとの関係は徐々に険悪になった。第8戦イギリス
シーズン終盤、[[ティレル]]の[[ジャン・アレジ]]が翌期のウィリアムズ移籍を断り、マンセルの後任としてフェラーリ入りすることが決定。マンセルは引退を撤回し、アレジの代わりに古巣ウイリアムズへの復帰を発表した。走りにも暴れん坊ぶりが蘇り、第13戦ポルトガル
=== ウィリアムズ時代(第2期) ===
==== 1991年 ====
[[ファイル:Mansell monaco 91.jpg|thumb|240px|right|ウィリアムズ・ルノーFW14(1991年)]]
[[1991年]]、ウイリアムズは[[エイドリアン・ニューウェイ]]と[[パトリック・ヘッド]]の合作、[[ウィリアムズ・FW14|FW14]]を投入。セミオートマティックトランスミッションの初期トラブルのためマンセルは序盤3戦連続リタイヤを喫し、第4戦のモナコ
第7戦フランス
競争力では中盤以降マクラーレンを上回ったものの、マシンの信頼性に難があったことに加え、チームや自身のイージーミスが重なり致命的な敗因となった。
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==== 悲願成就 ====
[[ファイル:Williams FW14B.jpg|thumb|240px|right|ウィリアムズ・ルノーFW14B(1992年)]]
[[1992年]]、ウィリアムズは[[アクティブサスペンション]]<ref group="注釈">ロータスが商標を保有したため、ウィリアムズが開発した装置は「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれる。</ref>などの[[ハイテク]]機器を搭載した[[ウィリアムズ・FW14|FW14B]]で序盤から圧倒的な速さを見せる。マンセルはチームメイトの[[リカルド・パトレーゼ]]をも圧倒し、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝、さらに第8戦フランス
しかし一方で、ウイリアムズのオーナー、[[フランク・ウィリアムズ]]は自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、セナやプロストも加わりシート争奪戦が加熱した。プロストは前年からウィリアムズと接触し、ハンガリー
政治的駆引きに疲れたマンセルは交渉を打ち切り、チャンピオン決定からわずか2戦後の第13戦[[イタリアグランプリ
さらにイタリア
=== CART参戦 ===
[[ファイル:mansell_cart.jpg|thumb|240px|right|1993年CARTシリーズでのマンセル]]
[[1993年]]には[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]の[[ニューマン・ハース・レーシング]]に加入し、[[マリオ・アンドレッティ]]のチームメイトとなる。開幕戦[[サーファーズ・パラダイス市街地コース|サーファーズ・パラダイス]]でデビュー戦ポール
F1とインディカーの両方でチャンピオンとなったのはマリオ・アンドレッティと[[エマーソン・フィッティパルディ]]、マンセル、[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]の4人。2年続けて両カテゴリを制覇したのはマンセルのみ。マンセルと入れ替わりにF1参戦した[[マイケル・アンドレッティ]](1991年CART王者)が不振だったため、F1とCARTの競技レベルを比較する報道もされた。
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[[ファイル:Williams FW16.jpg|thumb|240px|ウィリアムズ・ルノーFW16B]]
[[1994年]]、ウィリアムズはアイルトン・セナの事故死後、セナの代役として[[デビッド・クルサード]]を起用したが、F1人気低下を懸念する[[バーニー・エクレストン]]の仲介でマンセルに復帰を持ちかけた。マンセルはCARTのシーズン中、日程に影響のない第7戦フランス
[[File:McLaren MP4-10B front-left Donington Grand Prix Collection.jpg|thumb|240px|right|マクラーレンMP4-10B]]
[[1995年]]はアメリカ・フロリダ州からマン島に戻り、ウッドベリーパーク・ゴルフクラブの近くへ住居を移し、本格的にF1に復帰する体勢でいた。しかしクルサードがマクラーレン入りを画策した際、所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末若くて給料の安いデビッド・クルサードの残留が決定<ref group="注釈">それを知らされたのは直接ウィリアムズ関係者ではなく、マスコミからであったという</ref>。
結局これまでの長いF1生活で初めてとなるマクラーレンと契約を結ぶも、コックピットが狭いとの不満を漏らして開幕2戦を欠場。第3戦[[サンマリノグランプリ
過去2度とは異なり正式な引退表明はしていないが、その後は事実上、F1から引退した状態になっている。[[1996年]]12月に[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]にて髭を剃った姿でテストを行い、再々復帰も噂されたが実現に至らなかった。
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1990年に「マンセル・マジウィック・モータースポーツ」の共同オーナーとなり、チームは国際[[フォーミュラ3000|F3000]]選手権とイギリスF3000選手権に参戦した。国際F3000選手権のドライバーは[[アンドレア・モンテルミーニ]]と[[ジャン=マルク・グーノン]]。
現役引退後は地元で[[フェラーリ]]の[[ディーラー]]を経営する傍ら、自らの名を冠した博物館を運営した。ウッドベリーパーク・ゴルフクラブ
ドライバーとしては各種カテゴリにスポット参戦したり、イベントに招かれて出走している。1998年には[[アリ・バタネン]]と組みシャモニー24時間氷上レースに出場。[[イギリス
[[2001年]]、[[ミナルディ]]の2座席フォーミュラカーによる模擬レースに参加。[[フェルナンド・アロンソ]]のマシンに追突し、後ろにゲストを乗せたままマシンが宙に浮くクラッシュを演じた。
[[2005年]]にはF1の往年の名ドライバー達による[[グランプリマスターズ]]に参戦し、11月に[[南アフリカ共和国]]の[[キャラミ]]で開催された第1回大会で優勝。同年12月には[[BBC Two]]の自動車情報番組「[[トップ・ギア]]」第7シーズン5回目の放送に出演し、[[スズキ・エリオ|スズキ・リアナ]]を使用したタイムアタックで1分44秒6を記録し、[[ジェンソン・バトン]](1分44秒7)やデイモン・ヒル(1分46秒3)を上回る、当時のトップタイムを記録した<ref group="注釈">その後、[[ルーベンス・バリチェロ]]が1分44秒3、[[セバスチャン・ベッテル]]が1分44秒0を出し、トップタイムを塗り替えている。なお、2代目[[ザ・スティグ|スティグ]]の記録は1分44秒4(参考記録)。</ref>。
[[2006年]]、グランプリマスターズ第1戦[[カタール]]ラウンドで優勝。第3戦イギリスはフォーメーションラップ中にスピンしスタートできず(以後シリーズは自然消滅)。
[[2007年]]、[[FIA GT選手権]]第2戦([[シルバースト
[[2011年]]以降はFIA指定のゲストスチュワード(審議委員)として、いくつかのF1レースに招かれている<ref>"[http://www.gpupdate.net/ja/f1-news/278913/ モナコGPのスチュワードはマンセル]". GPUpdate.(2012年5月22日)2013年5月22日閲覧。</ref>。
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近年は長男[[レオ・マンセル]]([[:en:Leo Mansell|Leo Mansell]])と次男[[グレッグ・マンセル]]([[:en:Greg Mansell|Greg Mansell]])のレース活動を支援している。2005年、息子らのためにイギリス・デヴォンシャーにあるカート場を買収し、大規模なレーシング施設に改修したが、その際地元住民から騒音公害と近隣道路の渋滞の原因となるとして猛反発を受け、「キャンセル・マンセル」と銘打った反対運動を起こされた。2006年はイギリス[[フォーミュラ・BMW]]のチームを買収し、マンセル・モータースポーツとして参戦。また、同選手権の大使に就任しPR活動を行った。
マンセル兄弟は2007年はイギリスF3、[[2008年]]は[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|チャンプカー]]・アトランティックシリーズに参戦したが、[[2009年]]はレオが[[アメリカン・ル・マン・シリーズ]]、グレッグは[[フォーミュラ・ルノー3.5|ワールドシリーズ・バイ・ルノー]]に進んでいる。ふたりは[[
[[ファイル:Team LNT - Ginetta Zytek 09S being driven by Nigel Mansell.jpg|thumb|220px|ジネッタ-ザイテック・GZ09Sに乗るマンセル(2009年シルバースト
2009年9月13日、英国シルバースト
[[2010年]]、第78回[[ル・マン24時間レース]]LMP1クラスに息子のレオとグレッグとともに参戦。チームはビーチディーン・マンセル・モータースポーツ
|url=http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/20144.html
|title=クラッシュのマンセルは"無事"
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}}</ref>。
2013年にはレオと
== 特筆すべきレース ==
=== 名勝負 ===
;1986年スペイン
:レース中盤からロータスのセナとトップ争いを展開。残り9周でタイヤ交換したのち猛追し、最終ラップにセナに追いつき、最終コーナーからの加速で並びかける。両者ほぼ同時にチェッカーフラッグを受け、マンセルは勝利を確信するが、0.014秒差(距離にして93cm)という僅差でセナに軍配が上がった。
;[[1987年イギリスグランプリ
:決勝はウィリアムズ勢が3位以下を周回遅れにし、ピケとマンセルのマッチレースとなる。マンセルは途中タイヤトラブルでピットインしたが、28秒の遅れを挽回し再びピケの背後に迫る。残り3周のストウコーナーでマシンをアウト側に振る[[フェイント]]を仕掛け、反応したピケのイン側に切り込み首位に立つ。激走により燃料切れが心配されたが、マンセルのマシンは無事チェッカーフラッグを受け、ウィニングラン中にガス欠でストップした。ご機嫌の勝者はピケを抜いた場所で路面にキスをするパフォーマンスをみせた。
;1989年ハンガリー
:予選は12位に低迷するが、決勝はセッティングが決まり先行車を抜いていく。パトレーゼのリタイア後トップに立ったセナとの差を詰め、58周目の第3コーナーでセナが周回遅れにつかまった好機を逃さず、一気に抜いて優勝した。ツイスティーで追い抜きが難しく、予選順位が重視される[[ハンガロリンク]]での貴重な1勝。この年、首位走行中のセナをトラブル以外で同一周回で抜いたのは、この時のマンセルのみであった。
;1989年ベルギー
:2位争いでマクラーレンのプロストを抜きあぐねたマンセルは鋭角の1コーナー、ラ・ソースからの加速スピードを稼ごうと、縁石を乗り越えエスケープゾーンを大回りするコーナリングを繰り返した。ジャーナリスト達には「無意味なアクション」と失笑されたが、のちに縁石が低く改修され、他のドライバーもスタート直後の混戦で「マンセルライン」を活用するようになった。
;1990年メキシコ
:予選でマンセル、プロストのフェラーリ勢は10位以下に低迷するが、決勝は2台で後方から追い上げ、タイヤ磨耗に苦しむトップのセナを攻略する。その後、スピンしたマンセルはベルガーと2位争いを展開。一度は3位に落ちるが、難関の最終コーナー、ペラルターダでベルガーをアウト側から豪快に抜き返し、プロストとワン・ツーフィニッシュを決めた。5速全開で180度旋回するペラルターダについて、マンセルは自著で「GPサーキットの最も危険なコーナーのひとつ」と解説している<ref>{{Cite book
|others=守部信之・訳
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|pages=
}}</ref>。
;1991年スペイン
:チャンピオン争いに後のないマンセルは、決勝5周目に先行するセナを捉える。両者互いに譲らず、メインストレートをタイヤが触れんばかりの並走状態で駆け抜け、1コーナーでイン側のマンセルがバトルを制する。危険な超接近戦ながら、互いの技量を認めあうフェアな一騎打ちでもあった。
;[[1992年モナコグランプリ
:絶好調のマンセルは開幕6連勝に向けて独走するが、残り8周でリアタイヤの異変を感じてピットインし、セナに首位を譲る。新品タイヤに履き替え驚異的なペースで追い上げ、残り3周からデッドヒートを展開。曲がりくねったコースで激しく仕掛けるマンセルと巧みにブロックするセナの妙技は、モナコGP名勝負のひとつとなった。マンセルはセナを抜けず2位に終わり、表彰式後の[[シャンパンファイト]]では疲労困憊で座り込んだ。
:タイヤトラブルについて、マンセルはパンクと思っていたが、実際はホイールナットが緩んだことが原因だった<ref name="Model15p23">{{Cite journal |和書 |year=2002 |title=開発メンバーが語る、FW14B秘話 |journal=F1 Modeling |volume=15 |page=23 |publisher=山海堂}}</ref>。レース前にメカニックがタイヤを装着した時にタイヤウォーマーのストラップを噛んでしまい、ナットと[[ハブ (機械)|ハブ]]の間にわずかな繊維が残っていたため、レース終盤に緩んでしまった<ref name="Model15p23"/>。
;1992年イギリス
:練習走行・予選の全セッションでトップタイムを記録。予選はチームメイトのパトレーゼに2秒近い大差をつけポールポジション。決勝でも[[ファステストラップ]]記録、全周回トップ走行と「完全優勝」を達成する。シルバースト
;[[1994年日本グランプリ (4輪)|1994年日本
:大雨の悪コンディションの中、フェラーリの[[ジャン・アレジ]]と3位争いを展開。高速130Rで追い抜きを仕掛けるなど激しいバトルを演じ、最終ラップのシケインでかわす。レース後、アレジと健闘を讃えあい表彰台へ向かおうとしたが、2ヒート合計タイムで自分が4位であることを知らされ苦笑いした。この時がマンセル初にして唯一の日本
=== 物議を醸したレース ===
;[[1987年ベルギーグランプリ
:1周目にセナをアウト側から強引に抜こうとして接触。両者スピンしセナはリタイアする。その後リタイアしたマンセルは激昂してロータスのピットへ向かい、セナと殴り合いの騒ぎを起こし、粗暴な振舞いを非難された。
;[[1989年ポルトガルグランプリ
:予選からフェラーリ勢が好調で、決勝でもマンセルがベルガーを抜いて首位を走る。しかし、ピット作業時にチームのピットを通り過ぎたあとに後退ギアを使った為、失格の裁定が下った。ピットインを指示する[[レース旗#黒旗(ブラックフラッグ)|黒旗]]が提示されたが、3周に渡ってこれを無視し、最終的に第1コーナーでセナに接触した。マンセルは「逆光で旗が見えなかった」と弁明したが、5万ドルの罰金と1レース出場停止処分を受けた。黒旗を無視して走行し続け、チャンピオン争いをしていたセナと事故を起こしたことは大きな波紋を呼んだ。
;1990年ポルトガル
:フェラーリ勢が予選1列目を獲得し、ポールポジションのマンセルは僚友プロストのチャンピオン争いのアシストを期待された。しかし、スタートでマンセルが斜行してプロストの進路を塞ぎ、その隙にマクラーレン勢の先行を許す。その後マンセルは首位を奪い返し、結果的に[[ポール
;1992年カナダ
:この年初めてポールポジションを逃し、決勝でもセナに前をふさがれる。最終シケイン<ref group="注釈">[[ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット]]の難コーナーで、マンセルの他にも[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]、[[ミハエル・シューマッハ]]、[[デイモン・ヒル]]ら歴代チャンピオンがここでクラッシュしている。</ref>でインを突くが曲がりきれず、[[グラベル]]に突っ込んでこの年初のリタイヤを喫した。コースアウトしたマシンからマンセルはセナに怒りのジェスチャー右手を挙げ、さらにウィリアムズのピットに戻る途中マクラーレンのピットに立ち寄り、[[ロン・デニス]]に激しく抗議した。この姿はテレビ中継でも映し出されており、マンセルとデニスの確執を象徴するシーンの1つともなっている。その後競技委員に「セナにはじき出された」と訴えたが認められず。
== ドライビングスタイル ==
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|title=全開 マンセル自伝
|year=1996
|publisher=
|id=ISBN 4-544-04052-3
|pages=pp.48
}}</ref>。
精神面のコンディションが走りに現われるタイプで、気分が乗ると驚異的なパフォーマンスを発揮し、母国イギリス開催の
|others=[[熊倉重春]]訳
|editor=ナイジェル・マンセル/ジェイムス・アレン
|title=全開 マンセル自伝
|year=1996
|publisher=
|id=ISBN 4-544-04052-3
|pages=pp.238
}}</ref>。
安全性の向上に助けられたものの、ヨーロッパのジャーナリストからは「すでにマンセルは5回くらい死んでいる」と言われるほど<ref>『F1サーカスのヒーローたち』
1988年には[[本田技術研究所]]の所長だった[[川本信彦]]が、当時受けたインタビューのなかで、[[ラルト]]・ホンダのF2時代のマンセルを次のように評価している。「整然として系統立った彼のアプローチにはひどく感心させられました。事柄を想起する能力、車の反応を説明するしかたには、エンジニアとしての経歴が生きていると感じました」<ref name=ac36>{{Cite book
259行目:
|id=ISBN 4-7897-0422-X
|pages=pp.36-ff
}}</ref>さらに「その後、ウィリアムズ・ホンダを通じて再び彼と繋がりができたとき、ナイジェルは非常に優秀でした。[[ターボチャージャー|ターボ]]車からベストをひきだすには、自分のドライビングスタイルを変える必要がある、とすぐに気づいたようです。さすがだと思いましたね」とも述べている<ref name= ac36 />。なお、ホンダ・エンジンを搭載したF1ドライバーとしてマンセルの勝利数は13勝であり、32勝のセナに次いで2位の記録である(2008年現在)。
== 人間関係 ==
レースを離れれば愛妻家であり、家族想いの父親として知られる。1988年には[[水痘
直情的な性格ゆえに、他のドライバーやマスコミなどと関係を悪化させることが多かった。特にウイリアムズ・ホンダ時代のチームメイト、[[ネルソン・ピケ]]との不仲は有名で、両者は互いの情報交換を一切しない上、2人にチャンピオン争いが絞られてきた1987年シーズン後半になると、ホテルのロビーで顔を合わせても挨拶しかしないほど険悪な関係であった。その理由に、ピケが愛妻ロザンヌを侮辱したことが関係しているともいわれる。また、尊敬していると公言していた[[アラン・プロスト]]ともフェラーリ時代に不仲になった。
しかし、ロータス時代の[[エリオ・デ・アンジェリス]]、ウイリアムズ時代の[[ケケ・ロズベルグ]](当初はマンセルに嫌悪を示していたが後に和解)、[[リカルド・パトレーゼ]]、[[デイモン・ヒル]]、フェラーリ時代の[[ゲルハルト・ベルガー]]といったチームメイト、また[[デレック・ワーウィック]]、[[ミケーレ・アルボレート]]らとは良好な関係を築いていた。ワーウィックについては何でも話せる親友と自著で明かしている。ワーウィックの弟ポール・ワーウィックはマンセル・マジウィック・モータースポーツと契約し、1991年のイギリスF3000選手権に出場。事故死するが獲得ポイントによりシリーズチャンピオンに認定された。ヒルについては、マンセルは92年シーズン、当時ウィリアムズのテストドライバーだったヒルを自身の後任に強く推薦しており、デイモンは後年「このことは一生忘れない。ずっと感謝し続けるだろう」と感謝の言葉を述べている<ref>『GPX』MONACO GP 山海堂、p.30
[[ファイル:Mansell and Senna at Silverstone.jpg|thumb|right|240px|[[1991年イギリスグランプリ
[[アイルトン・セナ]]とはコース上で幾度となく接触しながらも、激しいバトルを演じた。1991年日本
無名のマンセルに注目し、F1デビューを手助けしたのはモータージャーナリストの[[ピーター・ウィンザー]]とロータスのアシスタントマネージャーの[[ピーター・コリンズ (曖昧さ回避)|ピーター・コリンズ]]だった。ウィンザーは後にウィリアムズの主要スタッフとなり、マンセルをサポートした。コリンズが[[リオデジャネイロ]]のビーチで溺れかけた時、マンセルが救助して恩返ししたこともある。
281行目:
1985年-1987年と3シーズンに渡ってホンダエンジンをドライブした上、その豪快なドライビングスタイルや、苦労人としてのレーシングキャリアが多くの[[日本]]のファンの支持を得て、親しみを込めて「'''マンちゃん'''」と呼ばれ絶大な人気を博していた。かつて存在した公式ファンクラブ「ザ・ナイジェル・マンセル・オフィシャルファンクラブ」は、母国イギリスのほか日本支部があった。
このあだ名を命名したのは
=== レッド5(レッドファイブ) ===
1985年に[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]へ移籍した際、この年のチームメイトである[[ケケ・ロズベルグ]]とヘルメットのカラーリングが似ていたため、チームクルーや他のドライバーが区別しやすいようにと、白字だったカーナンバー「5」をシーズン途中から赤に変更した<ref group="注釈">似た例として、1994年に周回遅れにチームメイトと混同されてブロックされることに悩まされた[[ミハエル・シューマッハ]]がカーナンバーを数戦だけオレンジ色にしたことがある。現在のF1では[[ロールケージ|ロールバー]]の上にある車載カメラ(ダミーの場合もある)の前面部分を赤色と黄色で区別するのが一般的。</ref>。赤を選んだ理由について、マンセルは「[[イギリス空軍]]の[[レッドアローズ]]からいただいたアイデア」<ref name="RO20095"/>と発言しており、第1期ウィリアムズ時代はレーシングスーツも赤色だった(チームメイトは白いレーシングスーツ。ロズベルグはオレンジ)。
このマシンで当時としては最遅記録となる参戦72戦目でのF1初優勝を遂げ、以来「赤いNo.5='''レッド5'''」はマンセルのトレードマークとなった。ロズベルグが1985年限りでチームを離脱し、チームメイトがピケ、パトレーゼと交代する中においても、フェラーリ移籍まで一貫して「レッド5」を付け続け<ref group="注釈">この期間中のウィリアムズ・チームは[[ティエリー・ブーツェン]](5番)[[リカルド・パトレーゼ]](6番)とも白字のナンバーだった。またフェラーリ時代はマシンが赤いこともあり、マンセルも通常の白いナンバーを使用した。</ref>、その後も1991年からの第2期ウィリアムズ時代、1993年のCARTに転向初年度にも、「レッド5」を付けていた<ref group="注釈">本来、ニューマン・ハース・レーシングではカーナンバー「2」を使用するはずだったがマンセルのトレードマークである「レッド5」を使用することが認められた。このため、カーナンバー「5」を使用するはずだったウォーカー・レーシングの[[スコット・グッドイヤー]]がカーナンバー「2」を使用している。</ref>。
1994年には、CARTではディフェンディング・チャンピオンの証である「No.1」、シーズン終盤にウィリアムズから復帰したF1では「No.2」となり、トレードマークの「No.5」は使用されなかったが、それぞれで赤字ナンバーは継続された。F1最終シーズンとなる1995年のマクラーレンでも赤いナンバーだったが、この場合は特別に変更したわけではなく、チームは元から赤字のカーナンバーであった。
1998年に[[
=== ライオンハート ===
攻撃的なスタイルを、かつてイングランドを支配した勇猛な[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の渾名、獅子心王
== 逸話 ==
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* 1953年生まれだが、現役時代のプロフィールでは1年[[鯖読み|鯖を読んで]]「1954年生まれ」と言っていた。
* レーサーになるためエンジニアを辞めた後、マンセルはビルの窓拭きのアルバイト、妻ロザンヌはガス会社のパートをして生計を立てた。F3参戦のため自宅を売り8000ポンドを捻出したが、資金は6週間で底をついた。妻に内緒で売り払ったため、資金がなくなりレースができなくなった際に妻にボロクソに言われた<ref name="f1r_1109 38" />。
* [[フォーミュラ・フォード]]では首を2か所骨折したが、全治6か月の診断にも関わらず病院を抜け出し、首にギプスをはめてレースに復帰し、その年のシリーズチャンピオンを獲得した。F3で脊椎を傷めた時も、2日後に鎮痛剤を通常の人間の7倍(一説には6倍)打ちロータスのF1走行テストを受けた。ロータスのマネージャーに「事故でひどい怪我をしたそうだが」と聞かれると、「同姓同名の別人でしょう?」と答えた。
* デビュー戦の1980年オーストリア
* 1985年シーズンのシート探しの際に、反射神経の良さを見せようと、高く掲げたコインを落とし、テーブルに落ちる前にキャッチする、ということを相手に見せて回っていた。
* 1986年メキシコ
* 1987年オーストリア
* 1987年日本
* [[エンツォ・フェラーリ]]から直々のオファーを受けた最後のドライバーと言われる。既に病床のエンツォはオファーを出す立場ではなかったとの説もあるが、マンセル自身はエンツォと数回に渡って会食をしており、直々のオファーを受けたとも言っている。
* 1989年ブラジル
* 1991年スペイン
* 趣味は[[ゴルフ]]で、下積み時代に事故で負傷した際、妻にリハビリとして勧められたのがきっかけ。腕前はハンディ2で、全豪オープンゴルフにアマチュア出場した経験もある。現役時代はバドックで「引退したらプロゴルファーになるのでは」という冗談も囁かれていた。プロゴルファーの[[グレ
* 学生時代に習った[[空手道|空手]]をトレーニングに取り入れ、[[上地流]][[沖縄空手道協会]]初段([[黒帯]])を取得。この試験を受けるためにわざわざ[[沖縄県|沖縄]]まで行った。
* 2003年、[[ジャージー
* 1992年シーズンの強さに関しては、FW14Bのライドハイトをマニュアル制御して直線速度を稼いでいたという説がある。
* 1987年のホンダエンジン搭載時の話として、アイドル回転数を1800~2000rpmに設定するセナに対し、マンセルは3500rpmと「ブレーキング時にも回転が落ちない」セッティングを好んだ<ref>http://www.f1sokuho.com/2010/f1_car/</ref>。
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== レース戦績 ==
* [[1963年]] - [[1975年]]: [[レーシングカート
* [[1976年]]: [[フォーミュラ・フォード]]1600 (ホーク・DL11・[[フォード・モーター|フォード]]) 9戦6勝
* [[1977年]]:
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** F3 (マーチ・803・トヨタ) 9戦
** F2 (ラルト・RH6/80・ホンダ) 4戦(選手権12位)
* 1993年: [[
* 1994年: PPGインディーカー・ワールドシリーズ (ニューマン・ハース/ローラ・T94・フォード) 16戦(選手権8位)
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|}
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[Template:F1 driver results legend 2|key]])
{{Reflist|group="注釈"}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 参考文献 ==
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*『Racing On』2009年5月号 ニューズ出版
*舘内端著『マンセルが好きだ!』1992年 双葉社 ISBN 4-575-28187-5
*ナイジェル・マンセル/ジェイムス・アレン著、熊倉重春訳『全開 マンセル自伝』
*ナイジェル・マンセル/デリック・オルソップ著、守部信之訳『ナイジェル・マンセルのF1サーキット・ガイド』ソニー・マガジンズ
*GP企画センター『F1サーカスのヒーローたち』グランプリ出版
▲== 脚注 ==
== 関連項目 ==
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{{succession box|title=[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|years=[[1992年のF1世界選手権|1992年]]|before=[[アイルトン・セナ]]|after=[[アラン・プロスト]]}}
{{succession box | before = [[ボビー・レイホール]] | title = [[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART インディカー・シリーズ]] チャンピオン| years = [[1993年のCARTシーズン|1993年]] | after = [[アル・アンサーJr.]]}}
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