「ナイジェル・マンセル」の版間の差分

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|Prev_IRL_Pos =
|Best_IRL_Pos = 1位 ([[1993年のインディカー・シリーズ|1993]])
|First_IRL_Race = [[1993年のインディカー・シーズ|1993]][[サーファーズ・パラダイス市街地コース|サーファーズ・パラダイス]] ([[オーストラリア]])
|Last_IRL_Race = [[1994年のインディカー・シーズ|1994]][[マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ|ラグナ・セカ]]
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|Last_IRL_Win = 1993年[[ナザレス・スピードウェイ]]
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}}
 
'''ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル'''('''Nigel Ernest James Mansell''', '''[[大英帝国勲章|CBE]]''' [[1953年]][[8月8日]] - )は、[[イギリス]]の[[自動車競技|レーシングドライバー]]
 
[[2014年]]現在、[[フォーミュラ1|F1]]と[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]のチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。
 
[[1990年]]には[[大英帝国勲章]]・オフィサー章(OBE)を、[[2012年]]には同・コマンダー章(CBE)を受勲。[[2005年]]に[[国際モータースポーツ殿堂]]({{lang|En|''The International Motorsports Hall of Fame'' }})入り。
 
愛称は'''「マンちゃん」'''、'''「荒法師」'''、'''「[[暴れん坊将軍]]」'''。
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[[アラン・プロスト]]、[[ネルソン・ピケ]]、[[ケケ・ロズベルグ]]、[[アイルトン・セナ]]らと並んで、[[1980年代]]のF1を代表する名ドライバーの1人。特に1980年代後半から[[1990年代]]初頭にかけてライバル関係にあったピケ、プロスト、セナとは、まとめて「'''[[四強 (モータースポーツ)#F1における四強|四強]]'''」もしくは「'''F1四天王'''」と呼ばれることもある。
 
F1歴代6位の通算31勝を記録するも、ドライバーズチャンピオン獲得は1992年の1度のみに留まった。何度かタイトル争いに絡みながら、その度にタイヤバーストなどの不運や怪我、ミスに泣き、チャンスを逃がし続けたことから、母国の先輩[[スターリング・モス]]になぞらえ「'''[[無冠の帝王]]'''」と称された時期もある。ただマンセル本人はこのフレーズを気に入って自称もしていた<ref>『F1サーカスのヒーローたち』P95p.95。</ref>。
 
イギリス中部の地方都市の労働者階級の家に生まれ、持ち家を売り借金を重ねながら妻ロザンヌとともに苦労して頂点まで上り詰めた、苦労人タイプのドライバーである。豪快かつ大胆なドライビングスタイルと、喜怒哀楽に富む人柄が人気を博し、「'''大英帝国の愛すべき息子'''」(Great(''Great Britain's lovely son)son'' )と呼ばれた。
 
== プロフィール ==
=== F1以前 ===
[[イングランド]]の[[ウスターシャー]]州に生まれ、成人するまでを過ごした。マシュー・ブルトン・カレッジで工学を学び、卒業後はフルタイムのレーシングドライバーに転身するまでルーカス・エンジニアリングで航空宇宙技術者として働いた<ref>{{Cite web
|last=Davis
|first=Gareth
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}}</ref>。
 
10歳から[[レーシングカートレース]]を始め、22歳で[[フォーミュラカー]]レースに挑戦。イギリス[[フォーミュラ・フォード]]1600(1977年チャンピオン)、イギリス[[フォーミュラ3|F3]]を経て、1980年にF1のロータスのテストドライバーと、[[フォーミュラ2|F2]]の[[ラルト]]・ホンダチームのドライバーとなる。下積み時代は活動資金に恵まれず、フォーミュラ・フォードでは首を骨折、F3では1979年オールトンパークでのレース中に[[アンドレア・デ・チェザリス]]の運転を原因とする事故に巻き込まれて[[脊椎]]を2箇所損傷する大事故を経験している。
 
=== ロータス時代 ===
[[ファイル:Mansell Lotus 95T Dallas 1984 F1.jpg|thumb|240px|right|[[ロータス・95T]]をドライブするマンセル(1984年)]]
1980年のF1第10戦[[オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]にて、ロータスからスポット参戦でF1デビュー。デビュー戦では燃料タンクからガソリンがしみ出しており、それがレーシングスーツを通して背中に炎症を作ったが、その痛みに耐えてマシンを走らせた。この時は翌年のロータスのシートは仮契約の状態だったが、デビュー戦のファイトあふれる走りがチーム監督の[[コーリン・チャップマン]]に非常に強い印象を与え、翌年からレギュラードライバーに昇格する。[[1981年]]の第5戦[[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]にて[[ジル・ヴィルヌーヴ]]との接戦を制し初入賞、3位表彰台に立った。
 
しかしロータス在籍時のマンセルは[[エリオ・デ・アンジェリス]]の陰に隠れ、後に「暴れん坊」といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる。しかも理解者でもあったチャップマンが[[1982年]]12月に急逝してしまい、その後を継いだ[[ピーター・ウォー]]とは非常に折り合いが悪かった。チャップマンが遺した[[アクティブサスペンション]]の開発を担当し、[[1983年]]の前半戦はアクティブカーの[[ロータス・92|92]]で出走した。
 
[[1984年]]の第6戦[[モナコグランプリ|モナコGP]]では、予選2位から初めてトップを走行するが、25周目<ref>『F1サーカスのヒーローたち』P94p.94。</ref>に大雨の中コース上の白線に乗ってスリップし、ガードレールにぶつかりリタイアした。第9戦[[1984年アメリカグランプリ|アメリカGPグランプリ]]([[ダラス]])では、自身初の[[ポールポジション]]を獲得したものの、決勝レースでは[[モータースポーツ#旗の色の意味|チェッカー]]目前で壁に当たって[[トランスミッション]]を壊して停止してしまう。マシンを降り自ら押してチェッカーを目指すも、途中で気絶してコース上に倒れ、結果的に6位完走扱いに終わった。
 
結局、ロータス在籍実質4年で幾度か表彰台には登るが勝利を得られず、新鋭[[アイルトン・セナ]]の加入により押し出される形でチームを去った。モナコGPグランプリでの好走が評価され、1985年のウィリアムズ入りが決まった<ref>『F1サーカスのヒーローたち』P94p.94。</ref>。
 
=== ウィリアムズ時代(第1期) ===
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[[ファイル:Nigel Mansell 1988 Canada.jpg|thumb|240px|right|[[ウィリアムズ・FW12]]・ジャッドをドライブするマンセル(1988年)]]
 
[[1985年]]には[[ホンダF1|ホンダ]]エンジンを搭載するウィリアムズへ移籍し、[[ケケ・ロズベルグ]]のチームメイトとなる。第7戦[[フランスグランプリ|フランスGP]]予選ではタイヤが[[バースト]]し、ホイールが頭部を直撃して失神。地元イギリスで行われた第14戦[[1985年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGPグランプリ]]で悲願の初優勝を果たした。F1出走72戦目での初優勝は当時の最遅記録となった。続く第15戦[[南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]でも優勝し、チャンピオン候補として急激に頭角を現した。
 
[[1986年]]にはウィリアムズに2度のチャンピオン経験者である[[ネルソン・ピケ]]が加入。しかしマンセルとはそりが合わず、チームメイトというよりもライバルとして意識しあう。マンセルはピケ、[[マクラーレン]]の[[アラン・プロスト]]と三つ巴のチャンピオン争いを展開。最多の5勝を挙げ、最終戦[[1986年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGPグランプリ]]を迎えた時点で2位に6ポイントの差をつけてランキングトップに位置していた。しかし、決勝では左リアタイヤのバーストによりリタイアし、プロストにポイントで逆転され、ドライバーズランキングは2位に終わった。リアタイヤがバーストした時点で287km/hの速度が出ていたが、マンセルはクラッシュすることなくマシンを停止させる離れ技を演じた。この際マンセルは、三輪になったマシンを見事にコントロールし、エスケープロードに安全に停止させる危機回避力を発揮した。
 
[[1987年]]は、母国での第7戦[[1987年イギリスグランプリ|イギリスGPグランプリ]]で、地元観客の大歓声を受けてタイヤ交換が1回少ないピケをニュータイヤのグリップを活かし怒涛の追い上げでオーバーテイク、30秒近い差を逆転し優勝を果たした。この年は最多の6勝8ポールポジション(全戦フロントロウ)ながらリタイアも多く、チャンピオン争いでは確実にポイントを重ねるピケに先行された。逆転の可能性を掛けて[[鈴鹿サーキット]]で行われた第15戦[[日本グランプリ (4輪)|日本GPグランプリ]]に挑むが、予選1日目にS字コーナーで大クラッシュ。背中を痛めてこのレースと最終戦を欠場することとなり、2年連続で王座を逃した。
 
[[1988年]]はホンダが[[マクラーレン]]へのエンジン供給に切り換え、ウィリアムズは非力で信頼性に乏しい[[ジャッド]]エンジンでの戦いを余儀なくされる。アクティブサスペンションの不調もあり、チームメイトの[[リカルド・パトレーゼ]]とともに苦戦を強いられた。出走14戦([[水疱瘡]]により2戦欠場)のうち12戦でリタイアしたが、ターボエンジン勢に食い込み予選で2位2回、完走した2戦ではいずれも2位表彰台を獲得した。この年は、トレードマークである口ヒゲを剃ったことでも話題となった。
 
=== フェラーリ時代 ===
[[ファイル:Nigel Mansell 1990 USA.jpg|thumb|240px|right|フェラーリのピットにて(1990年)]]
[[1989年]]からは、[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へ移籍。前年に続きマクラーレン勢が優勢であったが、開幕戦[[1989年ブラジルグランプリ|ブラジルGPグランプリ]]で優勝。[[セミオートマチックトランスミッション]]を初めてF1に導入したマシン[[フェラーリ・640|640]]のデビュー勝利を飾った<ref group="注釈">レース中シフト操作用パドルの付いたステアリングが緩んだため、タイヤ交換時にステアリングを交換した。</ref>。その後はマシンの信頼性不足に泣かされ、チームメイトの[[ゲルハルト・ベルガー]]共々ともどもリタイアが続いたが、第7戦[[1989年フランスグランプリ|フランスGPグランプリ]]以降は毎レース表彰台に登る。第10戦[[ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]では予選12番手から追い上げ、シーズン2勝目を挙げた。しかし、[[ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]では[[ピット#ピットでのルール|ピットレーンでの後進]]がレギュレーション違反とされ失格と判定されたが、黒旗提示後も走行を続け、トップ走行中のセナと接触。5万ドルの罰金と1レース出場停止処分を受け、セナのタイトル争いを妨害したと批判された。
 
[[1990年]]にはベルガーが去り、プロストがチームメイトとなる。第3戦[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]では、ベルガーに幅寄せされ接触を避ける為にダートに飛び出し、300km/hを超える速度からスピン状態に陥ったが、1回転のスピンからそのままコースに復帰するという離れ技を演じた。
 
しかしイタリア語が堪能なプロストが順調な成績を収めてチームの主導権がプロストに移ってゆくと、良好だったプロストとの関係は徐々に険悪になった。第8戦イギリスGPグランプリでリタイアすると、レース後の記者会見で突如引退を表明。その後はチーム監督[[チェーザレ・フィオリオ]]との関係も悪化し、覇気のないレースが続いた。第9戦[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]ではレース序盤にスピンしてマシンを傷めたが、修復すれば分に走れる状態であったにもかかわらず独断でマシンをガレージに入れ棄権。第11戦[[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でもスタート直後にクラッシュし、プロスト用にセットアップされたスペアカーを使用したが、走る気力を見せず自身の判断でリタイアした。
 
シーズン終盤、[[ティレル]]の[[ジャン・アレジ]]が翌期のウィリアムズ移籍を断り、マンセルの後任としてフェラーリ入りすることが決定。マンセルは引退を撤回し、アレジの代わりに古巣ウイリアムズへの復帰を発表した。走りにも暴れん坊ぶりが蘇り、第13戦ポルトガルGPグランプリでは[[ポールトゥウィン]]を達成。しかし、前年に続きタイトル争いを邪魔したため物議を醸した。第15戦日本GPグランプリでは首位走行中タイヤ交換するが、発進時に[[ドライブシャフト]]を折ってリタイア。ステアリングを叩いて悔しさを表した。
 
=== ウィリアムズ時代(第2期) ===
==== 1991年 ====
[[ファイル:Mansell monaco 91.jpg|thumb|240px|right|ウィリアムズ・ルノーFW14(1991年)]]
[[1991年]]、ウイリアムズは[[エイドリアン・ニューウェイ]]と[[パトリック・ヘッド]]の合作、[[ウィリアムズ・FW14|FW14]]を投入。セミオートマティックトランスミッションの初期トラブルのためマンセルは序盤3戦連続リタイヤを喫し、第4戦のモナコGPグランプリでようやく2位初完走。第5戦[[カナダグランプリ|カナダGP]]ではスタートから終始トップを走行しながら、最終ラップの残り半周でストップ。当初ガス欠かとも言われたが、レース終了後にマシンを調べたところエンジンが掛かりギアも入ったため「マンセルが観客に手を振った際、誤ってマシンの[[キルスイッチ]]に触れたのでは」という説も囁かれたが、後にマンセル本人が「セミATがシフトダウンする際に勝手にニュートラルに入ってしまう状態になっていて、駆動がかからなくなった。イグニッションを切ったのはエンストした後だ」と語っている<ref name="f1r_1109 38">『F1 RACING』日本版 2011年9月情報号、[[三栄書房]]、p.38、ISBN 9784779612794</ref>。チームはその後、キルスイッチを手の届きにくい場所に移した。
 
第7戦フランスGPグランプリでシーズン初勝利を挙げると第9戦ドイツGPグランプリまで3連勝を達成し、開幕4連勝を果たしたセナとのポイント差を詰めた。第13戦ポルトガルGPグランプリでは首位快走中にタイヤ交換するが、作業クルーの誤判断でホイールナットが締まり切らないまま発進し、ピットレーンで右後輪が脱落する。その後、指定エリア外でピット作業を行ったことがレギュレーション違反とされ、失格処分を受けた。続く第14戦スペインGPグランプリで優勝し、逆転の可能性を残して挑んだ第15戦日本GPグランプリ決勝では、10周目セナの後ろを走行中にコースアウトしリタイア。3度目の王座挑戦も失敗に終わった。コースアウトする直前、マンセルはピットに無線で'''I`m cruising now.'''と言っていたらしい。
 
競争力では中盤以降マクラーレンを上回ったものの、マシンの信頼性に難があったことに加え、チームや自身のイージーミスが重なり致命的な敗因となった。
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==== 悲願成就 ====
[[ファイル:Williams FW14B.jpg|thumb|240px|right|ウィリアムズ・ルノーFW14B(1992年)]]
[[1992年]]、ウィリアムズは[[アクティブサスペンション]]<ref group="注釈">ロータスが商標を保有したため、ウィリアムズが開発した装置は「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれる。</ref>などの[[ハイテク]]機器を搭載した[[ウィリアムズ・FW14|FW14B]]で序盤から圧倒的な速さを見せる。マンセルはチームメイトの[[リカルド・パトレーゼ]]をも圧倒し、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝、さらに第8戦フランスGPグランプリから第10戦ドイツGPグランプリまで3連勝を達成。過去の苦い経験が嘘のようにチャンピオン争いを独走する。第11戦ハンガリーGPグランプリにおいてついに念願のワールドチャンピオンに輝き、表彰台で男泣きした。最終的に16戦中14回のポールポジション、計9勝(すべてポールトゥウィン)を記録して、1988年のセナの記録13ポールポジション、8勝を塗り替えた。年間最多ポールポジション記録は{{f1|2011}}に[[セバスチャン・ベッテル]]が18戦15ポールポジションを記録するまで19年間破られなかった。ただしベッテルは19戦で4回PPを逃したが、マンセルは16戦で2回しかPPを逃していないので年間PP率はマンセルが上回る。また1980年のデビューから12年経過しており、当時の[[マリオ・アンドレッティ]]の10年を破り「デビューから最も遅いチャンピオン」であった<ref>『F1サーカスのヒーローたち』P95p.95。</ref>。
 
しかし一方で、ウイリアムズのオーナー、[[フランク・ウィリアムズ]]は自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、セナやプロストも加わりシート争奪戦が加熱した。プロストは前年からウィリアムズと接触し、ハンガリーGPグランプリ前に1993年の契約に成功。その契約ではプロストはセカンドドライバーを選べるオプションがあり、プロストはセナを拒否することができた。マンセルにしてみれば年間チャンピオンを獲得したにもかかわらず、年俸ダウンかつジョイントナンバー1扱いという内容ではあったが、一度はその契約条件を呑んだ。しかし、セナがマスコミを通じて「ウィリアムズに乗れるなら無給でもいい」と発したメッセージをフランク・ウィリアムズが契約交渉に持ち出し、(プロストとの契約上)セナが加入する可能性はないにもかかわらず大幅な年俸ダウンを提示した。
 
政治的駆引きに疲れたマンセルは交渉を打ち切り、チャンピオン決定からわずか2戦後の第13戦[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]で2度目の引退表明を行った。マンセルが本気だと知ったフランク・ウィリアムズは、急遽記者会見場にスタッフである[[ゲイリー・クラムプラー]]を派遣。クラムプラーは記者たちの面前で人目をはばからず「ナイジェル、お前の条件は全部受け入れるからやめてくれ」と懇願したがマンセルは構わず会見を続行し、「'''私の力の及ばない理由'''により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた」と発言した。
 
さらにイタリアGPグランプリの後、翌年から北米の[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]シリーズに転向することを表明した。当時、マンセル一家がイギリスの[[マン島]]から気候のいいアメリカの[[フロリダ州]][[クリアウォーター]]に移住していたことも好都合だった。
 
=== CART参戦 ===
[[ファイル:mansell_cart.jpg|thumb|240px|right|1993年CARTシリーズでのマンセル]]
[[1993年]]には[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]の[[ニューマン・ハース・レーシング]]に加入し、[[マリオ・アンドレッティ]]のチームメイトとなる。開幕戦[[サーファーズ・パラダイス市街地コース|サーファーズ・パラダイス]]でデビュー戦ポールトゥウィンを達成。第2戦は[[オーバルトラック]]の洗礼を受け、予選中クラッシュし欠場、負傷した背中を手術した。第4戦、伝統の[[インディ500]]ではレース終盤トップに浮上するが、黄旗走行後のリスタートを失敗し3位。しかし、その後のオーバルで4勝を挙げ、適応能力の高さを示した。結果、16戦中5勝(7ポールポジション)でシリーズチャンピオンを獲得。同時にルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝いた。
 
F1とインディカーの両方でチャンピオンとなったのはマリオ・アンドレッティと[[エマーソン・フィッティパルディ]]、マンセル、[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]の4人。2年続けて両カテゴリを制覇したのはマンセルのみ。マンセルと入れ替わりにF1参戦した[[マイケル・アンドレッティ]](1991年CART王者)が不振だったため、F1とCARTの競技レベルを比較する報道もされた。
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[[ファイル:Williams FW16.jpg|thumb|240px|ウィリアムズ・ルノーFW16B]]
 
[[1994年]]、ウィリアムズはアイルトン・セナの事故死後、セナの代役として[[デビッド・クルサード]]を起用したが、F1人気低下を懸念する[[バーニー・エクレストン]]の仲介でマンセルに復帰を持ちかけた。マンセルはCARTのシーズン中、日程に影響のない第7戦フランスGPグランプリにスポット参戦し、予選2位を獲得(決勝はリタイア)。さらにCARTのシーズン終了後、第14戦ヨーロッパGPグランプリから残りの3戦に再登場した。第15戦日本GPグランプリでは豪雨の中、[[ジャン・アレジ]]との長い3位争いで一歩も引かぬバトルを演じ、健在ぶりを示した(ちなみに、これがマンセルの鈴鹿での唯一の完走でもある)。最終戦オーストラリアGPグランプリではポールポジションを獲得し、決勝はチャンピオンを争う[[デイモン・ヒル]]と[[ミハエル・シューマッハ]]を先行させ、2人の相打ちを尻目にポールトゥウィンを達成した。ウィリアムズのコンストラクターズタイトル防衛に貢献し、結果的にこれがF1での最後の勝利となった。F1での出走にあたり、ニューマンハースとウィリアムズとの間に、CARTと重ならない日程でF1に出走する・競合するライバルメーカーのロゴを付けない(エンジンのルノーはフォード・燃料のエルフはテキサコ)という契約がなされたので、マンセルのレーシングスーツにはそれらのロゴは入っていなかった<ref>『GP Car Story vol.07 ウイリアムズFW16・ルノー』p.72。</ref>。
 
[[File:McLaren MP4-10B front-left Donington Grand Prix Collection.jpg|thumb|240px|right|マクラーレンMP4-10B]]
[[1995年]]はアメリカ・フロリダ州からマン島に戻り、ウッドベリーパーク・ゴルフクラブの近くへ住居を移し、本格的にF1に復帰する体勢でいた。しかしクルサードがマクラーレン入りを画策した際、所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末若くて給料の安いデビッド・クルサードの残留が決定<ref group="注釈">それを知らされたのは直接ウィリアムズ関係者ではなく、マスコミからであったという</ref>。
 
結局これまでの長いF1生活で初めてとなるマクラーレンと契約を結ぶも、コックピットが狭いとの不満を漏らして開幕2戦を欠場。第3戦[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]から参戦するも、このシーズンから新たに[[メルセデス・ベンツ]]エンジンを搭載したマシンの競争力が低いことや、予選でチームメイトの[[ミカ・ハッキネン]]を上回れないこともあり、モチベーションを失う。第4戦[[スペイングランプリ|スペインGP]]をリタイアした後、マクラーレンからの離脱を表明した。
 
過去2度とは異なり正式な引退表明はしていないが、その後は事実上、F1から引退した状態になっている。[[1996年]]12月に[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]にて髭を剃った姿でテストを行い、再々復帰も噂されたが実現に至らなかった。
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1990年に「マンセル・マジウィック・モータースポーツ」の共同オーナーとなり、チームは国際[[フォーミュラ3000|F3000]]選手権とイギリスF3000選手権に参戦した。国際F3000選手権のドライバーは[[アンドレア・モンテルミーニ]]と[[ジャン=マルク・グーノン]]。
 
現役引退後は地元で[[フェラーリ]]の[[ディーラー]]を経営する傍ら、自らの名を冠した博物館を運営した。ウッドベリーパーク・ゴルフクラブ(Woodbury(''Woodbury Park Hotel and Golf Club)Club'' )のオーナーとして、欧州シニアゴルフツアーの「ナイジェル・マンセル国際クラシック」を開催した(現在は経営権を手放している)。
 
ドライバーとしては各種カテゴリにスポット参戦したり、イベントに招かれて出走している。1998年には[[アリ・バタネン]]と組みシャモニー24時間氷上レースに出場。[[イギリス[[フォード]]ワークスの[[フォード・モンデオ|モンデオ]]に乗り、[[イギリスツーリングカー選手権|BTCC]](BTCC)の2ラウンドにスポット参戦した(最高5位)。
 
[[2001年]]、[[ミナルディ]]の2座席フォーミュラカーによる模擬レースに参加。[[フェルナンド・アロンソ]]のマシンに追突し、後ろにゲストを乗せたままマシンが宙に浮くクラッシュを演じた。
 
[[2005年]]にはF1の往年の名ドライバー達による[[グランプリマスターズ]]に参戦し、11月に[[南アフリカ共和国]]の[[キャラミ]]で開催された第1回大会で優勝。同年12月には[[BBC Two]]の自動車情報番組「[[トップ・ギア]]」第7シーズン5回目の放送に出演し、[[スズキ・エリオ|スズキ・リアナ]]を使用したタイムアタックで1分44秒6を記録し、[[ジェンソン・バトン]](1分44秒7)やデイモン・ヒル(1分46秒3)を上回る、当時のトップタイムを記録した<ref group="注釈">その後、[[ルーベンス・バリチェロ]]が1分44秒3、[[セバスチャン・ベッテル]]が1分44秒0を出し、トップタイムを塗り替えている。なお、2代目[[ザ・スティグ|スティグ]]の記録は1分44秒4(参考記録)。</ref>。
 
[[2006年]]、グランプリマスターズ第1戦[[カタール]]ラウンドで優勝。第3戦イギリスはフォーメーションラップ中にスピンしスタートできず(以後シリーズは自然消滅)。
 
[[2007年]]、[[FIA GT選手権]]第2戦([[シルバーストン・サーキット|シルバーストン]])にスクーデリア・エコッセの[[フェラーリ・F430|フェラーリ・F430GT]]でスポット参戦。結果は総合21位(クラス7位)。
 
[[2011年]]以降はFIA指定のゲストスチュワード(審議委員)として、いくつかのF1レースに招かれている<ref>"[http://www.gpupdate.net/ja/f1-news/278913/ モナコGPのスチュワードはマンセル]". GPUpdate.(2012年5月22日)2013年5月22日閲覧。</ref>。
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近年は長男[[レオ・マンセル]]([[:en:Leo Mansell|Leo Mansell]])と次男[[グレッグ・マンセル]]([[:en:Greg Mansell|Greg Mansell]])のレース活動を支援している。2005年、息子らのためにイギリス・デヴォンシャーにあるカート場を買収し、大規模なレーシング施設に改修したが、その際地元住民から騒音公害と近隣道路の渋滞の原因となるとして猛反発を受け、「キャンセル・マンセル」と銘打った反対運動を起こされた。2006年はイギリス[[フォーミュラ・BMW]]のチームを買収し、マンセル・モータースポーツとして参戦。また、同選手権の大使に就任しPR活動を行った。
 
マンセル兄弟は2007年はイギリスF3、[[2008年]]は[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|チャンプカー]]・アトランティックシリーズに参戦したが、[[2009年]]はレオが[[アメリカン・ル・マン・シリーズ]]、グレッグは[[フォーミュラ・ルノー3.5|ワールドシリーズ・バイ・ルノー]]に進んでいる。ふたりは[[ユニオンジャックイギリスの国旗]]をかたどった父親のヘルメットデザインを継承している。
 
[[ファイル:Team LNT - Ginetta Zytek 09S being driven by Nigel Mansell.jpg|thumb|220px|ジネッタ-ザイテック・GZ09Sに乗るマンセル(2009年シルバーストン1000km)]]
2009年9月13日、英国シルバーストンで開催された[[ル・マン・シリーズ]]最終戦1000km耐久レースLMP1クラスにチームLNTからスポット参戦。マシンは[[ジネッタ]]-[[ザイテック]]・GZ09S。息子グレッグと2006年のル・マンGT2クラスウイナー、ローレンス・トムリンソン(ジネッタCEO)との3名体制で挑み、結果は総合28位。
 
[[2010年]]、第78回[[ル・マン24時間レース]]LMP1クラスに息子のレオとグレッグとともに参戦。チームはビーチディーン・マンセル・モータースポーツ(Beechdean(''Beechdean Mansell Motor Sports)Sports'' )、マシンはジネッタ-ザイテック・GZ09S。念願の親子でのル・マン参戦が実現したが、スタートから間もなく左リアタイアがパンクし、時速200[[マイル毎時|mph]](約320km)320km/h)で高速クラッシュ。リタイア後、救急車で搬送されたが軽症で済んだ<ref>{{Cite news
|url=http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/20144.html
|title=クラッシュのマンセルは"無事"
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}}</ref>。
 
2013年にはレオとともに[[ジャージー]]で中古車ディーラーを開業。[[ウィリアムズ・FW14|ウィリアムズ・FW14B]]や優勝トロフィーなどを展示するマンセル博物館 ((''The Mansell Collection)'' を併設した<ref>"[http://www.telegraph.co.uk/motoring/motorsport/9730249/Nigel-Mansell-F1-champion-turned-secondhand-car-dealer.html Nigel Mansell, F1 champion turned secondhand car dealer]". Telegraph.(2012年12月28日)2013年5月22日閲覧。</ref>。
 
== 特筆すべきレース ==
=== 名勝負 ===
;1986年スペインGPグランプリ
:レース中盤からロータスのセナとトップ争いを展開。残り9周でタイヤ交換したのち猛追し、最終ラップにセナに追いつき、最終コーナーからの加速で並びかける。両者ほぼ同時にチェッカーフラッグを受け、マンセルは勝利を確信するが、0.014秒差(距離にして93cm)という僅差でセナに軍配が上がった。
;[[1987年イギリスグランプリ|1987年イギリスGP]]
:決勝はウィリアムズ勢が3位以下を周回遅れにし、ピケとマンセルのマッチレースとなる。マンセルは途中タイヤトラブルでピットインしたが、28秒の遅れを挽回し再びピケの背後に迫る。残り3周のストウコーナーでマシンをアウト側に振る[[フェイント]]を仕掛け、反応したピケのイン側に切り込み首位に立つ。激走により燃料切れが心配されたが、マンセルのマシンは無事チェッカーフラッグを受け、ウィニングラン中にガス欠でストップした。ご機嫌の勝者はピケを抜いた場所で路面にキスをするパフォーマンスをみせた。
;1989年ハンガリーGPグランプリ
:予選は12位に低迷するが、決勝はセッティングが決まり先行車を抜いていく。パトレーゼのリタイア後トップに立ったセナとの差を詰め、58周目の第3コーナーでセナが周回遅れにつかまった好機を逃さず、一気に抜いて優勝した。ツイスティーで追い抜きが難しく、予選順位が重視される[[ハンガロリンク]]での貴重な1勝。この年、首位走行中のセナをトラブル以外で同一周回で抜いたのは、この時のマンセルのみであった。
;1989年ベルギーGPグランプリ
:2位争いでマクラーレンのプロストを抜きあぐねたマンセルは鋭角の1コーナー、ラ・ソースからの加速スピードを稼ごうと、縁石を乗り越えエスケープゾーンを大回りするコーナリングを繰り返した。ジャーナリスト達には「無意味なアクション」と失笑されたが、のちに縁石が低く改修され、他のドライバーもスタート直後の混戦で「マンセルライン」を活用するようになった。
;1990年メキシコGPグランプリ
:予選でマンセル、プロストのフェラーリ勢は10位以下に低迷するが、決勝は2台で後方から追い上げ、タイヤ磨耗に苦しむトップのセナを攻略する。その後、スピンしたマンセルはベルガーと2位争いを展開。一度は3位に落ちるが、難関の最終コーナー、ペラルターダでベルガーをアウト側から豪快に抜き返し、プロストとワン・ツーフィニッシュを決めた。5速全開で180度旋回するペラルターダについて、マンセルは自著で「GPサーキットの最も危険なコーナーのひとつ」と解説している<ref>{{Cite book
|others=守部信之・訳
208行目:
|pages=
}}</ref>。
;1991年スペインGPグランプリ
:チャンピオン争いに後のないマンセルは、決勝5周目に先行するセナを捉える。両者互いに譲らず、メインストレートをタイヤが触れんばかりの並走状態で駆け抜け、1コーナーでイン側のマンセルがバトルを制する。危険な超接近戦ながら、互いの技量を認めあうフェアな一騎打ちでもあった。
;[[1992年モナコグランプリ|1992年モナコGP]]
:絶好調のマンセルは開幕6連勝に向けて独走するが、残り8周でリアタイヤの異変を感じてピットインし、セナに首位を譲る。新品タイヤに履き替え驚異的なペースで追い上げ、残り3周からデッドヒートを展開。曲がりくねったコースで激しく仕掛けるマンセルと巧みにブロックするセナの妙技は、モナコGP名勝負のひとつとなった。マンセルはセナを抜けず2位に終わり、表彰式後の[[シャンパンファイト]]では疲労困憊で座り込んだ。
:タイヤトラブルについて、マンセルはパンクと思っていたが、実際はホイールナットが緩んだことが原因だった<ref name="Model15p23">{{Cite journal |和書 |year=2002 |title=開発メンバーが語る、FW14B秘話 |journal=F1 Modeling |volume=15 |page=23 |publisher=山海堂}}</ref>。レース前にメカニックがタイヤを装着した時にタイヤウォーマーのストラップを噛んでしまい、ナットと[[ハブ (機械)|ハブ]]の間にわずかな繊維が残っていたため、レース終盤に緩んでしまった<ref name="Model15p23"/>。
;1992年イギリスGPグランプリ
:練習走行・予選の全セッションでトップタイムを記録。予選はチームメイトのパトレーゼに2秒近い大差をつけポールポジション。決勝でも[[ファステストラップ]]記録、全周回トップ走行と「完全優勝」を達成する。シルバーストン・サーキットには20万人の「マンセルマニア」が詰めかけ、[[ユニオンジャックイギリスの国旗]]を振る観客の声援でマンセルの走っている位置が分かるといわれた。ウイニングラップでは興奮した観客がコースに乱入し、立ち往生してマシンから降りたマンセルを揉みくちゃにするという光景も見られた。
;[[1994年日本グランプリ (4輪)|1994年日本GPグランプリ]]
:大雨の悪コンディションの中、フェラーリの[[ジャン・アレジ]]と3位争いを展開。高速130Rで追い抜きを仕掛けるなど激しいバトルを演じ、最終ラップのシケインでかわす。レース後、アレジと健闘を讃えあい表彰台へ向かおうとしたが、2ヒート合計タイムで自分が4位であることを知らされ苦笑いした。この時がマンセル初にして唯一の日本GPグランプリ完走であった。
 
=== 物議を醸したレース ===
;[[1987年ベルギーグランプリ|1987年ベルギーGP]]
:1周目にセナをアウト側から強引に抜こうとして接触。両者スピンしセナはリタイアする。その後リタイアしたマンセルは激昂してロータスのピットへ向かい、セナと殴り合いの騒ぎを起こし、粗暴な振舞いを非難された。
;[[1989年ポルトガルグランプリ|1989年ポルトガルGP]]
:予選からフェラーリ勢が好調で、決勝でもマンセルがベルガーを抜いて首位を走る。しかし、ピット作業時にチームのピットを通り過ぎたあとに後退ギアを使った為、失格の裁定が下った。ピットインを指示する[[レース旗#黒旗(ブラックフラッグ)|黒旗]]が提示されたが、3周に渡ってこれを無視し、最終的に第1コーナーでセナに接触した。マンセルは「逆光で旗が見えなかった」と弁明したが、5万ドルの罰金と1レース出場停止処分を受けた。黒旗を無視して走行し続け、チャンピオン争いをしていたセナと事故を起こしたことは大きな波紋を呼んだ。
;1990年ポルトガルGPグランプリ
:フェラーリ勢が予選1列目を獲得し、ポールポジションのマンセルは僚友プロストのチャンピオン争いのアシストを期待された。しかし、スタートでマンセルが斜行してプロストの進路を塞ぎ、その隙にマクラーレン勢の先行を許す。その後マンセルは首位を奪い返し、結果的に[[ポールトゥーウィン]]でこの年唯一の勝利を上げるが、プロストはチームの管理能力への不満をマスコミに漏らした。マンセル自身は「ホイールスピンが激しく横滑りしてしまった」と述べ、故意の幅寄せを否定した。
;1992年カナダGPグランプリ
:この年初めてポールポジションを逃し、決勝でもセナに前をふさがれる。最終シケイン<ref group="注釈">[[ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット]]の難コーナーで、マンセルの他にも[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]、[[ミハエル・シューマッハ]]、[[デイモン・ヒル]]ら歴代チャンピオンがここでクラッシュしている。</ref>でインを突くが曲がりきれず、[[グラベル]]に突っ込んでこの年初のリタイヤを喫した。コースアウトしたマシンからマンセルはセナに怒りのジェスチャー右手を挙げ、さらにウィリアムズのピットに戻る途中マクラーレンのピットに立ち寄り、[[ロン・デニス]]に激しく抗議した。この姿はテレビ中継でも映し出されており、マンセルとデニスの確執を象徴するシーンの1つともなっている。その後競技委員に「セナにはじき出された」と訴えたが認められず。
 
== ドライビングスタイル ==
234行目:
|title=全開 マンセル自伝
|year=1996
|publisher=玄社
|id=ISBN 4-544-04052-3
|pages=pp.48
}}</ref>。
 
精神面のコンディションが走りに現われるタイプで、気分が乗ると驚異的なパフォーマンスを発揮し、母国イギリス開催のGPグランプリでは初優勝を含めて5勝、2位2回、861986年から921992年まで7年連続ファステストラップ記録と抜群の成績を残した。その反面、気がはやると強引な走りで自滅したり、チーム内で居心地が悪くなるとモチベーションを失うこともあった。元チームメイトのベルガーはマンセルの性格を「ある面では感じやす過ぎるというかソフトすぎるんだけど、裏を返すと信じられないくらいファイターなんだよ」と語っている<ref>{{Cite book
|others=[[熊倉重春]]訳
|editor=ナイジェル・マンセル/ジェイムス・アレン
|title=全開 マンセル自伝
|year=1996
|publisher=玄社
|id=ISBN 4-544-04052-3
|pages=pp.238
}}</ref>。
 
安全性の向上に助けられたものの、ヨーロッパのジャーナリストからは「すでにマンセルは5回くらい死んでいる」と言われるほど<ref>『F1サーカスのヒーローたち』P95p.95。</ref>激しいクラッシュが多かった。またスタートしてすぐグリーン上を走って前車を抜く、コーナーで激しいアタックを掛けて相手が怯んだ隙に抜くなどルールぎりぎりの行動も多く、{{要出典範囲|F1ドライバーの中で最も多額の罰金を課せられたドライバーである。|date=2012年8月}}
 
1988年には[[本田技術研究所]]の所長だった[[川本信彦]]が、当時受けたインタビューのなかで、[[ラルト]]・ホンダのF2時代のマンセルを次のように評価している。「整然として系統立った彼のアプローチにはひどく感心させられました。事柄を想起する能力、車の反応を説明するしかたには、エンジニアとしての経歴が生きていると感じました」<ref name=ac36>{{Cite book
259行目:
|id=ISBN 4-7897-0422-X
|pages=pp.36-ff
}}</ref>さらに「その後、ウィリアムズ・ホンダを通じて再び彼と繋がりができたとき、ナイジェルは非常に優秀でした。[[ターボチャージャー|ターボ]]車からベストをひきだすには、自分のドライビングスタイルを変える必要がある、とすぐに気づいたようです。さすがだと思いましたね」とも述べている<ref name= ac36 />。なお、ホンダ・エンジンを搭載したF1ドライバーとしてマンセルの勝利数は13勝であり、32勝のセナに次いで2位の記録である(2008年現在)。
 
== 人間関係 ==
レースを離れれば愛妻家であり、家族想いの父親として知られる。1988年には[[水痘|水疱瘡]]の娘クロエを看病して自分もかかり、F1を2戦欠場した。下積み時代から苦楽をともにした妻のロザンヌは、1992年ハンガリーGPグランプリで夫の晴れ姿を見守りながら、インタビューに笑顔で「'''Long wait'''(長かったわ)」と答えた。
 
直情的な性格ゆえに、他のドライバーやマスコミなどと関係を悪化させることが多かった。特にウイリアムズ・ホンダ時代のチームメイト、[[ネルソン・ピケ]]との不仲は有名で、両者は互いの情報交換を一切しない上、2人にチャンピオン争いが絞られてきた1987年シーズン後半になると、ホテルのロビーで顔を合わせても挨拶しかしないほど険悪な関係であった。その理由に、ピケが愛妻ロザンヌを侮辱したことが関係しているともいわれる。また、尊敬していると公言していた[[アラン・プロスト]]ともフェラーリ時代に不仲になった。
 
しかし、ロータス時代の[[エリオ・デ・アンジェリス]]、ウイリアムズ時代の[[ケケ・ロズベルグ]](当初はマンセルに嫌悪を示していたが後に和解)、[[リカルド・パトレーゼ]]、[[デイモン・ヒル]]、フェラーリ時代の[[ゲルハルト・ベルガー]]といったチームメイト、また[[デレック・ワーウィック]]、[[ミケーレ・アルボレート]]らとは良好な関係を築いていた。ワーウィックについては何でも話せる親友と自著で明かしている。ワーウィックの弟ポール・ワーウィックはマンセル・マジウィック・モータースポーツと契約し、1991年のイギリスF3000選手権に出場。事故死するが獲得ポイントによりシリーズチャンピオンに認定された。ヒルについては、マンセルは92年シーズン、当時ウィリアムズのテストドライバーだったヒルを自身の後任に強く推薦しており、デイモンは後年「このことは一生忘れない。ずっと感謝し続けるだろう」と感謝の言葉を述べている<ref>『GPX』MONACO GP 山海堂、p.30、1995年。</ref>。
 
[[ファイル:Mansell and Senna at Silverstone.jpg|thumb|right|240px|[[1991年イギリスグランプリ|1991年イギリスGP]]にて、リタイアしたセナを乗せてウィニングラン。]]
[[アイルトン・セナ]]とはコース上で幾度となく接触しながらも、激しいバトルを演じた。1991年日本GPグランプリではリタイア後私服に着替えたマンセルがピットロードでセナを出迎え、セナのチャンピオン獲得を祝福した。1992年ハンガリーGPグランプリのレース後、セナはチャンピオンのマンセルを抱きしめながら「よくやったね、ナイジェル。本当にいい気分だろ?そうじゃないか!これであんたも僕が嫌な野郎だった訳がわかったよな?この気分をなくしたり、他人に経験させたりしたくなかったのさ。」と呟き、マンセルに祝辞を述べた。
 
無名のマンセルに注目し、F1デビューを手助けしたのはモータージャーナリストの[[ピーター・ウィンザー]]とロータスのアシスタントマネージャーの[[ピーター・コリンズ (曖昧さ回避)|ピーター・コリンズ]]だった。ウィンザーは後にウィリアムズの主要スタッフとなり、マンセルをサポートした。コリンズが[[リオデジャネイロ]]のビーチで溺れかけた時、マンセルが救助して恩返ししたこともある。
281行目:
1985年-1987年と3シーズンに渡ってホンダエンジンをドライブした上、その豪快なドライビングスタイルや、苦労人としてのレーシングキャリアが多くの[[日本]]のファンの支持を得て、親しみを込めて「'''マンちゃん'''」と呼ばれ絶大な人気を博していた。かつて存在した公式ファンクラブ「ザ・ナイジェル・マンセル・オフィシャルファンクラブ」は、母国イギリスのほか日本支部があった。
 
このあだ名を命名したのは[[自動車評論家|モータージャーナリスト]]の[[舘内端]]。舘内はマンセルの生地を訪問し、1992年に『マンセルが好きだ!』<ref>『マンセルが好きだ!』</ref>なる著作を出版。日本GPグランプリ必勝祈願のため東京[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]から鈴鹿まで行脚するほどのマンセルファンだった(舘内曰く、片仮名の「'''マンチャン'''」が正しい表記<ref name="RO20095">『[[Racing On]]』2009年5月号 ニューズ出版</ref>)。また、同業者の[[西山平夫]]もこのフレーズを愛用した。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のF1中継で実況をしていた[[古舘伊知郎]]も、ウイリアムズ復帰後に使用していたことがある。他に、古舘語録においては「'''暴れん坊将軍'''」「'''荒法師'''」が多く用いられた。
 
=== レッド5(レッドファイブ) ===
1985年に[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]へ移籍した際、この年のチームメイトである[[ケケ・ロズベルグ]]とヘルメットのカラーリングが似ていたため、チームクルーや他のドライバーが区別しやすいようにと、白字だったカーナンバー「5」をシーズン途中から赤に変更した<ref group="注釈">似た例として、1994年に周回遅れにチームメイトと混同されてブロックされることに悩まされた[[ミハエル・シューマッハ]]がカーナンバーを数戦だけオレンジ色にしたことがある。現在のF1では[[ロールケージ|ロールバー]]の上にある車載カメラ(ダミーの場合もある)の前面部分を赤色と黄色で区別するのが一般的。</ref>。赤を選んだ理由について、マンセルは「[[イギリス空軍]]の[[レッドアローズ]]からいただいたアイデア」<ref name="RO20095"/>と発言しており、第1期ウィリアムズ時代はレーシングスーツも赤色だった(チームメイトは白いレーシングスーツ。ロズベルグはオレンジ)。
 
このマシンで当時としては最遅記録となる参戦72戦目でのF1初優勝を遂げ、以来「赤いNo.5='''レッド5'''」はマンセルのトレードマークとなった。ロズベルグが1985年限りでチームを離脱し、チームメイトがピケ、パトレーゼと交代する中においても、フェラーリ移籍まで一貫して「レッド5」を付け続け<ref group="注釈">この期間中のウィリアムズ・チームは[[ティエリー・ブーツェン]](5番)[[リカルド・パトレーゼ]](6番)とも白字のナンバーだった。またフェラーリ時代はマシンが赤いこともあり、マンセルも通常の白いナンバーを使用した。</ref>、その後も1991年からの第2期ウィリアムズ時代、1993年のCARTに転向初年度にも、「レッド5」を付けていた<ref group="注釈">本来、ニューマン・ハース・レーシングではカーナンバー「2」を使用するはずだったがマンセルのトレードマークである「レッド5」を使用することが認められた。このため、カーナンバー「5」を使用するはずだったウォーカー・レーシングの[[スコット・グッドイヤー]]がカーナンバー「2」を使用している。</ref>。
 
1994年には、CARTではディフェンディング・チャンピオンの証である「No.1」、シーズン終盤にウィリアムズから復帰したF1では「No.2」となり、トレードマークの「No.5」は使用されなかったが、それぞれで赤字ナンバーは継続された。F1最終シーズンとなる1995年のマクラーレンでも赤いナンバーだったが、この場合は特別に変更したわけではなく、チームは元から赤字のカーナンバーであった。
 
1998年に[[BTCCイギリスツーリングカー選手権]](BTCC)にスポット参戦したときは、「No.5」は[[ジェームス・トンプソン (レーサー)|ジェームス・トンプソン]]が使用していたが、「No.55」を赤字にして登場。BTCCのカーナンバーは黒となっていたが、例外的に赤いカーナンバーが認められたものであった。2005年に開催された[[グランプリマスターズ]]でも、赤いカーナンバー5を付けている。
 
=== ライオンハート ===
攻撃的なスタイルを、かつてイングランドを支配した勇猛な[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の渾名、獅子心王(Lion(''Lion hearted'' hearted)に準えたもの。フェラーリ在籍中、イタリアの[[ティフォシ]]には'''イル・レオーネ'''([[:It:Panthera leo|''Il Leone'' ]])と呼ばれた。
 
== 逸話 ==
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* 1953年生まれだが、現役時代のプロフィールでは1年[[鯖読み|鯖を読んで]]「1954年生まれ」と言っていた。
* レーサーになるためエンジニアを辞めた後、マンセルはビルの窓拭きのアルバイト、妻ロザンヌはガス会社のパートをして生計を立てた。F3参戦のため自宅を売り8000ポンドを捻出したが、資金は6週間で底をついた。妻に内緒で売り払ったため、資金がなくなりレースができなくなった際に妻にボロクソに言われた<ref name="f1r_1109 38" />。
* [[フォーミュラフォード]]では首を2か所骨折したが、全治6か月の診断にも関わらず病院を抜け出し、首にギプスをはめてレースに復帰し、その年のシリーズチャンピオンを獲得した。F3で脊椎を傷めた時も、2日後に鎮痛剤を通常の人間の7倍(一説には6倍)打ちロータスのF1走行テストを受けた。ロータスのマネージャーに「事故でひどい怪我をしたそうだが」と聞かれると、「同姓同名の別人でしょう?」と答えた。
* デビュー戦の1980年オーストリアGPグランプリで燃料漏れで大火傷をした際に[[ハムストリング筋]]が縮んでしまい、それ以降、歩行に支障が出ている<ref name="f1r_1109 35">『F1 RACING』日本版 2011年9月情報号、[[三栄書房]]、p.35、ISBN 9784779612794</ref>。
* 1985年シーズンのシート探しの際に、反射神経の良さを見せようと、高く掲げたコインを落とし、テーブルに落ちる前にキャッチする、ということを相手に見せて回っていた。
* 1986年メキシコGPグランプリは優勝すれば初チャンピオンを決められる状況だったが、パーティーで食べた肉に当たり、レースウィーク中ひどい腹痛に見舞われた。決勝は5位に終わり、悲劇の最終戦オーストラリアGPグランプリを迎えることになる。
* 1987年オーストリアGPグランプリはスタートで2度赤旗中断、再レースとなったが、2度目はマンセルの失速による多重クラッシュが原因だった。大迷惑をかけながら優勝したマンセルは、表彰台へ向かうオープンカーに乗っていた。観客に手を振ろうと立ち上がった際、ちょうど車が橋の下を通過しようとしていたため、橋桁に頭を思い切りぶつけてしまい、頭を抱えながら表彰台に上がるハメになってしまった。このレースは前日に[[親知らず]]を抜き、鎮痛剤を飲みながらの出場だった。
* 1987年日本GPグランプリのクラッシュは宙に舞うほど激しいものであり、本人も背骨を損傷し呼吸困難な状態に陥った。翌朝集中治療室で目が覚めた際、部屋の隣人が一人、二人と亡くなっていくのを見て「旅は3人でするのが良いと言われているから、自分にもお呼びがかかると思った。後にも先にもこんなに恐ろしい思いをしたことはない」と後に語っている<ref name="f1r_1109 35" />。
* [[エンツォ・フェラーリ]]から直々のオファーを受けた最後のドライバーと言われる。既に病床のエンツォはオファーを出す立場ではなかったとの説もあるが、マンセル自身はエンツォと数回に渡って会食をしており、直々のオファーを受けたとも言っている。
* 1989年ブラジルGPグランプリでは、この年フェラーリが投入した[[セミオートマチックギアボックトランミッション]]のトラブルなど、マシンの信頼性の低さから、5周程度でリタイアするものと考えていた。このためマンセルはリタイヤ後すぐに帰国するつもりで、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]のパイロットに、レーススタートから間もない時間でのロンドン行きのチケットを手配させた。レースは開始してすぐにチームメイトのベルガーが接触リタイア。「次は俺のマシンの番だ」と思い「潰れるなら早い方がいい」とプッシュしていったところ、先頭に立ちそのまま優勝。当然予定していた飛行機に乗れなかった。レース後、表彰台で優勝トロフィーを受け取ろうとしたマンセルは、トロフィーのとがった部分で指を切った<ref name="f1r_1109 34">『F1 RACING』日本版 2011年9月情報号、[[三栄書房]]、p.34、ISBN 9784779612794</ref>。このレースでは、ステアリングホイールが外れそうになり、ピットストップで5本のホイールを交換することになった<ref name="f1r_1109 34" />。
* 1991年スペインGPグランプリでは、チャンピオン争いの渦中にいながら記者とのサッカー大会で左足首を捻挫し、レース出場が危ぶまれた。セミオートマチックシフトのおかげで左足の[[クラッチ]]操作が不要になったのが幸いした。
* 趣味は[[ゴルフ]]で、下積み時代に事故で負傷した際、妻にリハビリとして勧められたのがきっかけ。腕前はハンディ2で、全豪オープンゴルフにアマチュア出場した経験もある。現役時代はバドックで「引退したらプロゴルファーになるのでは」という冗談も囁かれていた。プロゴルファーの[[グレグ・ノーマン]]とは友人で、次男に「グレッグ」の名前をもらうほどの親交がある。
* 学生時代に習った[[空手道|空手]]をトレーニングに取り入れ、[[上地流]][[沖縄空手道協会]]初段([[黒帯]])を取得。この試験を受けるためにわざわざ[[沖縄県|沖縄]]まで行った。
* 2003年、[[ジャージー]]の自宅の庭に侵入した不審者8人と格闘し、頭を怪我した。
* 1992年シーズンの強さに関しては、FW14Bのライドハイトをマニュアル制御して直線速度を稼いでいたという説がある。
* 1987年のホンダエンジン搭載時の話として、アイドル回転数を1800~2000rpmに設定するセナに対し、マンセルは3500rpmと「ブレーキング時にも回転が落ちない」セッティングを好んだ<ref>http://www.f1sokuho.com/2010/f1_car/</ref>。
317行目:
 
== レース戦績 ==
* [[1963年]] - [[1975年]]: [[レーシングカートレース]]
* [[1976年]]: [[フォーミュラ・フォード]]1600 (ホーク・DL11・[[フォード・モーター|フォード]]) 9戦6勝
* [[1977年]]:
330行目:
** F3 (マーチ・803・トヨタ) 9戦
** F2 (ラルト・RH6/80・ホンダ) 4戦(選手権12位)
* 1993年: [[CARTチャンプカー・ワールド・シリーズ|PPGインディーカー・ワールドシリーズ]] (ニューマン・ハース/ローラ・T93・フォード) 16戦5勝(選手権1位)
* 1994年: PPGインディーカー・ワールドシリーズ (ニューマン・ハース/ローラ・T94・フォード) 16戦(選手権8位)
 
981行目:
|}
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[Template:F1 driver results legend 2|key]])
 
== ==
{{Reflist|group="注釈"}}
 
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
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*『Racing On』2009年5月号 ニューズ出版
*舘内端著『マンセルが好きだ!』1992年 双葉社 ISBN 4-575-28187-5
*ナイジェル・マンセル/ジェイムス・アレン著、熊倉重春訳『全開 マンセル自伝』玄社 ISBN 4-544-04052978-4544040524
*ナイジェル・マンセル/デリック・オルソップ著、守部信之訳『ナイジェル・マンセルのF1サーキット・ガイド』ソニー・マガジンズ ISBN4ISBN 4-7897-0691-5
*GP企画センター『F1サーカスのヒーローたち』グランプリ出版 ISBN4ISBN 4-906189-94-6
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 関連項目 ==
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{{s-sports}}
{{succession box|title=[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|years=[[1992年のF1世界選手権|1992年]]|before=[[アイルトン・セナ]]|after=[[アラン・プロスト]]}}
{{succession box | before = [[ボビー・レイホール]] | title = [[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART インディカー・シリーズ]] チャンピオン| years = [[1993年のCARTシーズン|1993年]] | after = [[アル・アンサーJr.]]}}
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