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==失脚==
胡耀邦の政治改革は、保守派の巻き返しにあい、[[1986年]]9月の第13期6中全会で棚上げされた。逆に同会議において保守派主導の「精神文明決議」が採択され<ref name="maeda79">前田(2014年)79ページ</ref>、胡は保守派、[[八大元老|八大元老(長老グループ)]]らの批判の矢面にさらされた。1986年12月5日[[安徽省]][[合肥市]]にある中国科学技術大学の学生によって、全国学生デモの口火が切られた<ref name="tabata88">田畑(1995年)88ページ</ref>。直接の原因は市の人民代表の選挙にあたっての学生代表の取り扱いについてであった<ref name="tabata88"/>。デモはたちまち[[北京市|北京]]、[[上海市|上海]]など全国に波及した<ref name="tabata88"/>。[[方励之]]、[[劉賓雁]]、[[王若望]]らの党員知識人が学生デモを積極的に支持した<ref name="tabata88">田畑(1995年)88ページ</ref>。鄧小平はこうした事態に12月30日、胡耀邦、趙紫陽、万里、李鵬らを集めて学生デモに対して怒りを爆発させた<ref name="tabata88"/>。
鄧小平は第13回党大会で[[中国共産党中央顧問委員会|中央顧問委員会]]主任を引退し、胡耀邦に後を継がせて世代交代を図ろうとしていたが、顧問委員会が主催した民主生活会で胡耀邦は保守派、改革派を問わず延々と批判され、ついに[[1987年]][[1月16日]]の政治局拡大会議で胡耀邦は総書記を解任された。この会議には[[陳雲]]ら党長老が出席し、全会一致で胡耀邦の解任と趙紫陽が総書記代理に就任することが決まった。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]自由化」に寛容だったため、さらには独断で[[日本]]の青年3千人を招待したことも挙げられた。11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に正式に選出された。