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[[File:Hisashi Hoshino, Professor of Japanese Language, Literature and History.jpg|thumb|200px|星野恒]]
'''星野 恒'''(ほしの ひさし、[[天保]]10年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[1839年]][[8月15日]]) - [[大正]]6年([[1917年]])[[9月6日]])は、国史学者・漢学者、[[東京大学|東京帝国大学]]教授。名は世恒、[[字]]は徳天、通称は恒太郎(ひろたろう)、号は豊城
 
== 来歴 ==
[[越後国]][[蒲原郡]][[白根町]](現在の[[新潟県]][[新潟市]])生まれ。[[万延]]元年([[1860年]])[[江戸]]に出て[[塩谷宕陰]]について[[漢学]]を学び、[[明治]]8年([[1875年]])[[明治政府の修史事業|修史事業]]に参加、明治14年([[1881年]])編修官に任ぜられ、明治21年([[1888年]])10月[[東京帝国大学|帝国大学]]文科大学(現在の[[東京大学|東大]][[文学部]])教授に転任、明治24年([[1891年]])8月[[文学博士]]の学位を受け、明治39年([[1906年]])[[帝国学士院]]会員となり、明治44年([[1911年]])[[史学会]]評議員長となる。
 
大正6年(1917年)、[[脳出血]]のため死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)269頁</ref>。
 
== 業績 ==
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== 関連事項 ==
*[[明治政府の修史事業]]
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
*[[中尾尭]]「[[星野恒]]」(『日本古文書学講座』第9巻月報、雄山閣、1977年)
*[[中村昌司]]「[[星野恒]]」(『郷土の碩学』、新潟日報事業社、2005年)
 
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