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[[古代]][[日本]]の寺院[[伽藍]]の構造においては全体の北側の区域に[[法堂|講堂]]を南側として、東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)の3棟の僧房を設置した。これを'''三面僧房'''(さんめんそうぼう)と呼ぶ。また、それより小規模な形態として講堂の北側に並行して北階(ほくかい)・南階(なんかい)の2棟の僧房を設置する寺院もあった。
 
大寺院の場合には長さ200-300尺梁行(奥行)40尺前後の大房と中庭を挟んで対となって建てられた梁行10尺余り(長さは対となる大房とほぼ同じ)小子房(しょうしぼう)から構成されていた。前者は僧侶が居住し、後者はその従者が居住する空間とされ、小子房と同じ機能を持つものとして更に中房(ちゅうぼう)も併置される場合があった。大房・小子房ともに約20尺余りの桁行(間口)ごとに仕切られて10区画もしくはそれ以上の棟割が行われ、その1つ1つを「房」と称した。房の中は3つに分けられ、扉の付いた入口側と連子窓が付いた一番奥の部分が居室、真ん中の光の入りにくい部分が寝室に用いられ、1つの房に10名前後の僧侶が集団生活を営んだ(1人あたりに直すと2・3坪となる)。床は土間か板敷で天井を有していたが、板敷や天井は当時の講堂や[[金堂]]などの伽藍の主要施設には存在せず、あくまでも僧坊は居住・睡眠・休息の場として用いれていたことが知ることが出来る。
 
だが、[[平安時代]]に台頭した[[天台宗]]や[[真言宗]]では巨大な僧房は設置されず、既存の宗派([[南都六宗]])でも私僧房である[[子院]]を建てる高僧が登場した。また、僧房でも高僧が1人で房を独占したり、仏堂や[[御影堂]]に改装されるようになり、[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけて本来の機能を喪失していった。ただし、近世の[[禅宗]][[檀林]]に併設された学寮の中には古来の僧房の伝統を継承した施設もあった。