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==略歴==
 
[[幕臣]]の子で、[[江戸]]目白台の徒士屋敷(現東京都[[文京区]][[目白台]]の[[日本女子大学]]敷地内)に生まれる。父は西山家から養子に入った樫郎、母は町子。田口家は初代右衛門が将軍・[[徳川吉宗]]の従士として使えて以来の家系で、のちに零落し、[[天保]]12年(1841年)に[[佐藤一斎]]が株を買い、一斎の長男である慎左衛門が継ぐ。慎左衛門の娘町子は井上家に嫁いだ後に後家となり、樫郎を婿に迎えた。
 
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明治23年(1890年)には府会副議長となり、明治27年(1894年)には[[尾崎三良]]らと[[帝国財政革新会]]を結成し、この年には衆議院議員に当選する。明治29年([[1896年]])には[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]を結成、明治30年([[1897年]])には島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する。明治31年([[1898年]])、[[憲政党]]創設委員に参加。明治32年([[1899年]])には法学博士となる。明治33年([[1900年]])、[[義和団の乱]]に際して視察を行う。晩年『[[国史大系]]』、『[[群書類従]]』の編纂に道筋をつけた。ほとんど独力で行われたこれらの編纂・出版事業を評して[[鳥谷部春汀]]は「利益のみを目的としては決して企てることができない、文壇への慈善事業である」と賞賛している。
 
明治38年(1905年)、慢性腎炎のため死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁</ref>。
 
== 著作 ==
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=== 伝記研究 ===
* 田口親 『田口卯吉 [[人物叢書]]』 ([[吉川弘文館]]、2000年)
* 松野尾裕 『田口卯吉と経済学協会 啓蒙時代の経済学』([[日本経済評論社]] 1996年)
*『田口卯吉と東京経済雑誌』([[杉原四郎]]・[[岡田和喜]]編 日本経済評論社 1995年)
* [[嘉治隆一]] 『明治以後の五大記者 兆民・鼎軒・雪嶺・如是閑・竹虎』 ([[朝日新聞社]] 1973年)
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==