「任那日本府」の版間の差分

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== 概要 ==
倭(古代日本)が[[朝鮮半島]]南部に設置した統治機関として[[日本書紀]]に言及されているものであるが、[[第二次世界大戦後]]、韓国、北朝鮮の民族主義者や日本の左派系それぞれの歴史研究などから反動的なによる見直しの動きられはじめ極端日本書紀が描いたよう例で植民地統治北朝鮮の歴史学者完全よって[[分国論]]が唱えら否定さるなど、政治的な理由から論争が多い
 
しかし、少なくとも、下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、大和王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと見られている。
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=== 第二次大戦後 ===
[[戦後|第二次世界大戦後]]も、1970年代までは、古代の日本が4世紀後半から朝鮮南部を支配して任那日本府を設置したという見解は日本学界の通説であった<ref name=tanak>田中(2008)</ref><ref name=tanaka>田中(2009)</ref>。しかし、1963年に北朝鮮の金錫亨の論文、「三韓三国の日本列島内の分国について」が日本学界に大きな衝撃を与えた<ref name=tanak />。金の考えは一般に「[[分国論]]」と呼ばれ、簡潔にいえば朝鮮半島の三国が日本列島内に植民地を持っていたという説である<ref name=tanak/>。分国論自体は韓国優越の民族主義に根ざす荒唐無稽な説で学界では全く支持されなかったものの、当時の一般的な通説に対し一石を投じ、既存通説から逸脱した自由奔放な歴史解釈の嚆矢となった。
 
=== 1970年代 ===
[[黒岩重吾]]はこの時代を「1970年代は任那という言葉を口にするのは、はばかられるような雰囲気でした」と述べている<ref>{{Cite book
|author = 室谷克実|year = 2010|title= 日韓がタブーにする半島の歴史|publisher= 新潮社|page = 213|isbn = 978-4106103605}}</ref>。
しかし70年代以降[[洛東江]]流域の旧伽耶地域の発掘調査が飛躍的に進み、文献史料の少ない伽耶史を研究するための材料が豊富になってくるとともに当時、日本書紀反保守的、リベラル記述に引きずられ世相を反映し、既存の保守い科学的な解釈を捨議論が可能になっ独自の歴史解釈を提唱する者が現れた。
 
[[井上秀雄]]は、任那日本府は『[[日本書紀]]』が引用する『百済本紀』における呼称であり、『百済本紀』とは百済王朝が倭国([[ヤマト王権]])に迎合的に書いた史書で、従来の研究はこの史書の成立事情を考慮してこなかったと批判し<ref name="inoue1067">井上2004 pp.106-107.また井上『任那日本府と倭』(1972)</ref>、任那日本府について近代での[[朝鮮総督府]]のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団としている<ref name="inoue1067"/>。[[三国志 (歴史書)|三国志『魏志』]]韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が[[加羅諸国]]を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする<ref name="inoue1067"/>。『百済本紀』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国とを結びつけたのであり、任那日本府と大和は直接的には何の関係も持たないと主張した<ref name="inoue1067"/>。
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=== 1990年代 ===
1990年代になると伽耶研究の対象が従来の[[伽耶#駕洛国(金官伽耶)|金官伽耶]]・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、井上説を支持する[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]の提唱するところの大伽耶連盟の概念により、高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究も一部みられるようになった。70年代の路線を踏襲し、以降、既存通説からの大胆な逸脱の試み、独自の解釈が盛んに行われるようになった。
 
また、1990年代後半からは主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域の研究が推進される一方で、[[1983年]]に[[慶尚南道]]の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が[[前方後円墳]]であるとして紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見や新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)している[[ヒスイ製勾玉]]の原産地が[[糸魚川市|糸魚川]]周辺に比定されている事などを踏まえ、一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された。
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日本の文部科学省は、2002年に[[新しい歴史教科書をつくる会]]による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に検定意見をつけて「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と述べている<ref>『日本経済新聞』2002年4月10日朝刊</ref>。
 
[[2002年]]から[[2010年]]まで2回にわたり、[[第1次安倍内閣]]の主導による[[日本]]と[[韓国]]のそれぞれの学界の一部による「[[日韓歴史共同研究]]」(にっかんれきしきょうどうけんきゅう)がもたれた。日本側からは[[宋書|宋書倭国伝]]で、[[倭王武]]が[[宋朝]]より使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に封じられている記述が存在するのに、日本の朝鮮半島南部の征服や支配が全く無いと結論を出すのは不自然との指摘が出された。韓国側からは日本の支配があったのに否定的な意見が出された。金泰植弘益大学校師範大学教授が、任那日本府と称されたところのものは安羅が倭人官僚を迎え入れた外務官署であり、また官僚は安羅の臣下であって、呼称についても「安羅倭臣館」とするのが適当などとすると一方、森公章は、安羅は倭臣が自立した活動をしていた場所で、倭臣の安羅に対する隷属を否定するなど、不一致があった<ref name="sear">日韓歴史研究報告書の要旨[http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010032301000547.html]</ref>。しかし最終的な報告書では、大和政権の一部の勢力が朝鮮半島の地方で活動したことは認められるとしている<ref name="sear" />。
 
上述の[[慶尚南道]]の松鶴洞一号墳は、その後の調査により、築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった<ref group="注釈">(→[[沈奉謹]]編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年))</ref>。また、これまでのところ[[全羅南道]]に11基、[[全羅北道]]に2基の前方後円墳が確認されている。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の勢力圏の最西部であった地域のみに存在し、円筒[[埴輪]]や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。韓国の[[慶北大学]]の[[朴天秀]]教授は、韓国の前方後円墳は在地首長の墓を避けるように単発的に存在し、石室を赤く塗るものもあり、九州の古墳と共通点が多い為、被葬者は九州出身の[[豪族]]だった可能性を指摘している。また、朴は、全ての文化は韓国から日本に渡ったし、前方後円墳だってそうだ、という反応が[[80年代]]の韓国ではあったが、それは間違いで、韓国の前方後円墳は5~6世紀に日本から韓国に渡った文化を示す例であるとし、朝鮮半島南部の倭の統治機関としての「任那日本府説」の存在を否定しつつ、一方で韓国民族主義の影響を強く受けた自国研究者の学説を厳しく批判し、この時代の朝鮮半島への倭の影響を認めている<ref group="注釈">(『朝日新聞』2010年3月19日)