「マリ・キュリー」の版間の差分

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だが同年、周囲から推されて科学アカデミー会員の候補になったことがマリを煩わしい事態に巻き込むこととなる。空席を巡って対立候補となった[[エドアール・ブランリー]]との間で、支持者による2つの陣営が出来上がってしまった<ref name=Eve388 />。自由主義者のマリと敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]のブランリー、ポーランド人対フランス人、そして女性対男性<ref>[[#Goldsmith 2005|Barbara Goldsmith (2005)、pp.170-171]]</ref>。特にかつて1902年にピエールに競り勝って会員となった人物が女性の会員に猛反対した<ref name=Eve388 />。さらには、カトリックの投票権者達に対してマリが[[ユダヤ人]]だというデマまで流れた<ref name=Eve388 />。エクセルシオール紙[[:fr:Excelsior (journal)|(fr)]]などは一面でマリを攻撃し、右翼系新聞には彼女の栄誉はピエールの業績に乗っかっただけという記事まで載った<ref name=Pasa97>[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、pp.97-113、重い病]]</ref>。
 
1911年1月23日、アカデミー会員の選出投票が行われたが、詰め掛けた記者たちや野次馬で会場は混乱の中にあった。夕方に判明した結果は僅差<ref group="注">投票結果は文献で差がある。[[#エーヴ2006|エーヴ (2006)、p.393]]では1票差、[[#パサコフ2007|パサコフ (2007)、p.99]]では2票差とある。[[#米沢2006|米沢(2006)、p.107]]では詳しく、58人の投票でマリ28票、ブランリー29票、他の候補1票となり、2候補に絞られた決戦投票でマリ28票、ブランリー30票とある。</ref>でブランリーが選ばれ、研究所の面々はマリ本人を除いて落胆に暮れた<ref name=Eve388 />。この時には、マリは請われて既にいくつかの外国のアカデミー会員になっていた。彼女を拒絶したフランスが初の女性会員を選出するのは1979年であった<ref name=Yone106>[[#米沢2006|米沢(2006)、pp.106-107、科学アカデミー]]</ref>。淡々としたマリだったが、手記にはフランスアカデミーの古い因習を嫌っていたことが書かれており、2度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否し、科学アカデミーと完全に袂を分かつことになった<ref name=Pasa97 />。なお、フランスの公的機関がマリに正式な栄誉を与えたのは1922年のことである(医療への貢献という理由でパリ医学アカデミーが前例を覆して彼女を会員に選出した<ref name=Pasa97 />)。
 
[[File:1911 Solvay conference.jpg|thumb|left|200px|1911年に開催された第1回[[ソルベー会議]]の模様。着席した前列右から2番目がマリ・キュリー。後列1番右にポール・ランジュバンがいる。]]