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== 歴史 ==
<!--『中部II』27ページより-->
野辺山高原は、[[近世]]初期まで[[家]]や[[集落]]がまったくなく、甲斐・信濃間の交通路としては、八ヶ岳南麓に甲斐から佐久方面に抜ける佐久甲州街道(現在の[[国道141号]])や、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[甲斐武田氏]]が甲斐から信濃諏訪郡へ向かう道として整備されたとする[[棒道]]が通るのみであった。
野辺山高原は、[[近世]]初期まで[[家]]や[[集落]]がまったくなく、佐久甲州街道(現在の[[国道141号]])と[[棒道|信玄の棒道]]が通るのみであった。そこで、[[江戸幕府]]は[[1606年]]([[慶長]]11年)に板橋村、[[1686年]]([[貞享]]3年)に矢出原新田を置き、[[冬]]の[[交通]]と[[旅人]]の[[安全]]の確保の任務を負わせた。村の[[農家]]は「とうね」(当歳馬=[[馬齢]]0歳の馬)を主に生産し、[[明治時代]]に[[軍馬]]の生産が奨励されると飼育頭数は急増した。[[1886年]](明治19年)には川上村原と南牧村海尻に牛馬競売市が開かれ、翌[[1887年]](明治20年)には両者を統合して海ノ口市場ができた。[[島崎藤村]]の『[[千曲川のスケッチ]]』には当時の海ノ
 
野辺山高原は、[[近世]]初期まで[[家]]や[[集落]]がまったくなく、佐久甲州街道(現在の[[国道141号]])と[[棒道|信玄の棒道]]が通るのみであった。そこで、[[江戸幕府]]は[[1606年]]([[慶長]]11年)に板橋村、[[1686年]]([[貞享]]3年)に矢出原新田を置き、[[冬]]の[[交通]]と[[旅人]]の[[安全]]の確保の任務を負わせた。村の[[農家]]は「とうね」(当歳馬=[[馬齢]]0歳の馬)を主に生産し、[[明治時代]]に[[軍馬]]の生産が奨励されると飼育頭数は急増した。[[1886年]](明治19年)には川上村原と南牧村海尻に牛馬競売市が開かれ、翌[[1887年]](明治20年)には両者を統合して海ノ口市場ができた。[[島崎藤村]]の『[[千曲川のスケッチ]]』には当時の海ノ
口市場の賑わいが描かれている。また、2,500[[ヘクタール|ha]]の海ノ口牧場([[1900年]]〔明治33年〕開設)を始めとして相次いで牧場が造られた。
 
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