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'''陳 公博'''(ちん こうはく、[[1892年]][[10月19日]] - [[1946年]][[6月3日]])は、[[中華民国]]の[[政治家]]。[[日中戦争]]中に[[汪兆銘]]と共に日本との協調路線を政策方針とする[[南京政府]]を設立、戦後は日本に協力した[[漢奸]]として死刑となった。
 
== 人物・来歴 ==
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[[満州事変]]勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが[[1936年]]に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。[[1938年]]に汪共々[[重慶市|重慶]]を脱出し、対日和平を模索。[[1940年]]に至って[[汪兆銘政権]]が成立すると[[立法院 (中華民国)|立法院]]長を務めると共に上海市長を兼任。[[1944年]]3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。
 
戦後の混乱時に、[[支那派遣軍]]総参謀副長[[今井武夫]]少将に申し出て、一時的に[[日本]]へ身を寄せるが、国民政府の帰国要請で裁判を受けるため中国へ帰国する<ref>この間の事情は、みすず書房から発行の今井武夫『支那事変の回想』に詳述されている。</ref>。「南京偽政府を樹立し、中国国民の利益に反する行為を行なってきた」<ref>益井康一『漢奸裁判史』 P60</ref>との理由で[[1946年]][[4月12日]]に[[死刑]]判決を受け、6月3日[[蘇州市|蘇州]]で処刑銃殺された。
 
== 脚注 ==