「テオドロ公国」の版間の差分

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|元首等年代始2 = 1475年6月
|元首等年代終2 = 1475年11月
|元首等氏名2 = アレクサンドロスガブラス
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
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'''テオドロ公国'''(The Principality of Theodoro、[[ギリシア語]]:Θεοδόρο)は、[[12世紀]]から[[14世紀]]にかけて[[クリミア半島]]南西部に位置していた小さな[[公]]である。「ゴーティア」としても知られる。首都は[[マングプ]]テオドロ公国は地理的に近接する[[トレビゾンド帝国]]と同盟関係にあり、また北方の[[ジョチ・ウルス]]に服属していた。
 
この公国を統治した王朝は、メガスビザンツ帝国の皇帝を輩出した[[コムネノ皇祖と婚姻同朝]]を関係にあったギリシア語で主とするいわゆる御一門」の一部を構成した準皇族[[ガブラス」、あるいは[[トルコ語]]で「秒」という一族であった。 [[14世紀]]後半、王分派が一部は[[モスクワ]]に移住し、モスクワに[[修道院]]を設立した。彼らは「[[ゴブリン]]」のあだ名で呼ばれたが彼らは一時期、[[モスクワ大公国]]の財政家の桁管理引き受け代を継世襲的に担当してできた。 [[16世紀]]に至って、彼らは自分たちの性を「ゴールロビン」に変えた。
 
[[1475年]]5月、[[オスマン帝国]]の司令官[[ゲディクアフメット・パシャ]]は[[フェオドシヤ]]を征服し、1475年の終わりに包囲、先端のみ焼はマングブを陥落させ、公国を滅ぼした。以降クリミア半島の残りの地域は後、オスマン帝国の[[属国]]になった[[クリミア・ハン国]]の一部となり領域を除いて征服された[[クリミア半島]]のかつてのテオドロ公国の昔の地と版図を含む南部クリミア半島一帯はオスマン帝国の領土となった。
 
==テオドロの君主たち==
*[[テオドロス1世ガブラス]]
*[[テオドロス2世ガブラス]](1204年〜?)
:(この間、君主の歴代や系譜は不明)
*?
*[[デメトリオスガブラス]](1362年〜1368年)
*(この間、君主の歴代や系譜は不明)
*?
*[[バジルレイオスガブラス]]
*[[ステファノスガブラス]](バジルレイオスの、?〜1402年)
*[[アレクシオス1世コムネノスガブラス]](ステファノスの、1402年〜1434年)
*[[アレクシオス2世コムネノスガブラス]](アレクシオス1世コムネノス、1434年〜1444年)
*[[ヨハネスガブラス]](オールルベイとも称した。アレクシオス1世コムネノス、1444年〜1460年)
*(この間、君主の歴代や系譜は不明)
*?
*[[イサキオスガブラス]](アレクシオス1世コムネノス、1471年〜1474年)
*(この間、君主の歴代や系譜は不明)
*[[アレクサンドロスガブラス]](イサキオスの(14751475年6月〜1475年11月)
 
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