「ミカエル1世ランガベー」の版間の差分

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8世紀後半に[[エーゲ海]]地区の艦隊司令官を務めていたテオフュラクトス・ランガベの息子。ニケフォロス1世の娘のプロコピアと結婚し、クーロパラテースの爵位を与えられていた。811年に義父のニケフォロス1世が[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア]]の[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]の軍に敗れて戦死し、辛くも生き延びた義兄のスタウラキオスも瀕死の重傷を負っていたため、同年のうちに皇帝の座を譲られて即位することとなった。このとき、息子の[[テオフュラクトス]]を共同皇帝としている。
 
即位した時、クルムの軍は帝国領に侵入してきており、非常に危機的な状況にあった。そのためミカエル1世は政権基盤の強化のため、ニケフォロス1世と対立していたストゥディオス修道院長テオドロスらとの妥協や、皇帝称号をめぐって交渉が続いていた[[フランク王国]]との妥協を迫られた。そして[[812年]]、[[800年]]に[[ローマ教皇]]から「ローマ皇帝」<ref>これを「西ローマ皇帝」と表記する場合もあるが、ローマ教会側は[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]女帝以降のコンスタンティノープルの皇帝をローマ皇帝として認めていたわけではなく、カールを唯一のローマ皇帝として戴冠していた。「ローマ教会もまた唯一の帝国という理念を抱き、決して第二の帝国を建設しようとしたのではなかった。それは古いビザンツ帝国に代わる新しい帝国の建設であった。教皇側は正統皇帝[[コンスタンティノス6世|コンスタンディノス六世]]廃位以後、帝位は空白であると考えた。」<!--「」内は原文ママなので、原文に書かれていないことは書くべきではない-->(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』1999年 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] P395)</ref>とされていた[[カール大帝]]の皇帝就任を承認している(単なるフランク族の皇帝としては認めたが、ローマ皇帝とは認めなかった)。
 
813年、ミカエル1世は軍を率いてクルムと[[ヴェルシニキアの戦い|ベルシニキアで戦った]]が、[[テマ]]・アナトリコン長官であったレオーン(のちの皇帝[[レオーン5世]])の非協力的態度もあって敗北した。その直後、ミカエル1世はレオーンへの譲位を余儀なくされた。彼は修道士となって余生を過ごしている。なお、息子のニケタスは[[去勢]]された上で修道士とされた。後に[[ミカエル3世]]・[[バシレイオス1世]]時代に[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]となるイグナティオスである。