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生涯にわたって哲学書は一冊も書かなかったが、「形而上学クラブ」のメンバーの一人で[[プラグマティズム]]で著名な[[ウィリアム・ジェームズ]]らと親交があった<ref>鶴見、2008、pp105-118</ref>。チョンシー・ライトから影響を受ける。
 
『コモン・ロー』における「法の生命は論理ではなく、経験であった。」({{Lang|en|"The life of the law has not been logic; it has been experience."}})との一言は有名。彼は法学は科学であるとして、自然法論、法実証主義に基づく伝統的な法理論の形而学的要素を排除し法学を科学として余分な概念を排除しようとした。彼は「法の意味論」について探求し、法の論理的側面と事実的側面を区別し、後者の観点から法を分析する。彼にとって法は、現在及び将来の人々を支配するものではなく、その時々の人々によく仕えるための「道具」であり、権利とは公権力を利用して物理力を行使し、一定の条件の下保護を受けることとして、権利の事実的側面を重視する。権利は物理力の行使という事実によって支えられているのである。権利を実現するには裁判所と言う公的権力の助けを借りなければならない。裁判官は、論理によって法原則を適用して機械的に結論を出しているのではなく、まず結論を出し、その後に適用すべき法原則を見つけ出しているのである。法が一定のルールの体系であり、裁判官はこれに拘束され、これを解釈するだけであり、法を事実に適用して機械的に結論を出しているという伝統的法理論は形而上学に過ぎない。法の生命である経験とは、個人的なものでなく、集団的な一般人のもの、つまり、一定の文化に属する「共同体」の選ばれた陪審員のものであって、命題の形をもたない。個々の裁判の結果を決めるのは、法ではなく、裁判官たちが法と呼んでいるものである。現に法廷において裁判官たちがなそうとしていことの予測こそ私が法の名において理解しているものであり、それ以上のものではないとの「法予測理論」を発表した。このように裁判の予測が法学の核心となるのは、法が悪人のためのものだからである。人が高いお金を払って法律家にアドバイスを求めるのは、どのような「行為」をしたときに、自分が公権力から制裁を受け、あるいは保護を受けうるのか、その一定の条件を知りたいがためである。法は行為という人の外形的な事実によって分析されるべきであり、人の内心の道徳とは峻別されるのである
 
{{仮リンク|グラント・ギルモア|en|Grant Gilmore}}によれば、[[クリストファー・コロンブス・ラングデル]]と共に{{仮リンク|法形式主義|en|Legal formalism}}を代表する一人ともされる。法を科学としてみる点では両者に共通する点はあるが、彼は、人生と憲法及び民主政を一つの実験と見て、ある思想を価値あるものとするのは、その思想が客観的な実体と一致するという形而上学的真理の対応関係にあるわけでなく、その思想が集団の生活にもたらす効果の違いにあると考え、真理の試金石を「思想の自由市場」に求めた。経験や効果を重視し、法学を裁判の結果を予測する学問であるして「道具」としてとられる見方はまさにプラグマティズムに基づくものであるとされる。彼のプラグマチックな思想は、[[ロスコー・パウンド]]の[[法社会学|社会学的法学]]、[[ジェローム・フランク]]の[[リアリズム法学]]に影響を与えた。もっとも、彼が自らの哲学をプラグマティズムであることを認めたことはなく、自身の哲学を「ベタビリタリアニズムの哲学」(賭けが可能だという信念の哲学)と後年称した。
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