「在地領主」の版間の差分

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'''在地領主'''(ざいちりょうしゅ)とは、[[中世]][[日本]]の[[荘園公領制]]の下、[[荘園]]・[[公領|公領(国衙領)]]の在地(現地)において農民・漁民ら所領を実際に支配する権限を持っしてい[[武士]]層([[領主]]のこと。[[京都]]など都市部に拠点を有する[[貴族天皇家]]・[[公家]]・[[寺社]]などの[[荘園領主]]('''都市領主)や'''([[荘園]]における[[国守]]や[[知行国主]]などと対比される存在で、一般的には当時の記録では「'''[[根本領主]]'''」「'''[[開発領主]]'''」と呼ばれ、村落に[[宅]](屋敷地)を持つ[[武士]]層が想定されている。なお、在地領主による土地支配体制を'''在地領主制'''(ざいちりょうしゅせい)と呼称する。
 
== 概要 ==
在地当時の記録では「'''[[根本領主は在地]]'''」「'''[[開発領主]]'''」と呼ばれ、村落[[]](屋敷地)と呼ばれる居住空間とそれに付属する[[門田(かどた)・門]](かどばた)と呼ばれる直営地を保有していた。在地領主は都市の荘園領主から一定の制約を受けながらも門田畠によって構成されからなる'''[[本宅]]'''(堀ノ内・土居)に関する強力を構え、種子・農具私権有し保管する倉庫や、[[郎従]]・[[下人]]を従えて本宅内に彼らの小屋、馬屋馬場弓場・堀・土塁、種子や農具などを保管する倉庫などの施設を宅内に設けて防御を固めるとともに、本た。宅を囲う堀は本宅の防御とともに門田畠への灌漑機能も合わせて有していたことから、荘園内において高い生産力を持つことが可能となった。在地領主は、このように農耕と軍事に必要な物資・施設を集積していた。
 
在地領主は都市領主から荘園・公領の現地管理や経営を委ねられる形で存在し、都市領主による一定の制約を受けたが、本宅の内側は[[家父長制]]的支配の及ぶ範囲であり、これ拠点中核として、そ強力な支配権軍事的・経済的基盤範囲背景次第外部に押し広げていった。在地領主は[[勧農]]・[[検注]]・[[夫役徴収]]などの権限を行使しう他後には公領[[所職検断]]や荘園[[荘官年貢]]([[下司]]・[[公]]地位収取といった公権的権限獲得し公領・荘園の[[検断下司]][[年貢公文]]といった地位([[公事所職]]収取形でその土地に対する権限と権利も獲得相続継承するようになった在領主は在地における域の実質的な支配者となり、後世におい、[[鎌倉時代|鎌倉期]]の[[御家人]]あるい、[[南北朝時代 (日本)|南北朝期]]以降「村落領主」「[[国人領主」]]へと飛躍することとな展開していった。
 
== 在地領主制 ==
中世武士在地支配を基層する社会の支配体制を'''在地領主制'''と呼称する。中世を貴族寺社などの都市領主層が次第に没落し、武士が政治社会の実権を握っていく時代とする認識は古くから存在したが、[[戦後]]すぐなって[[石母田正]]が『'''[[中世的世界の形成]]'''』を著し、武士が在地領主として在地を支配していく過程と貴族・寺社によ古代奴隷制国家の解体と武士による中世封建制国家の形成を関連付ける「'''在地領主制'''」考え方を打ち出した。石母田の考えは日本史学形成過程大きな影響力を与え、在地おいて都市領主層による[[武家政権古代]][[鎌倉幕府奴隷制]]社会が克服され[[室町幕府中世]])成立史を結びつける研究や在地領主の形成と解体の過程を[[平安時代封建制]]後期から[[戦時代 (日本)|戦国時代]]に探る動きなどの動きが見られ、反対移行したという考え方を打ち出した('''石母田説への批判論(在地領主を奴隷支配者と捉える説や荘園領主の被官に過ぎないとする説などの「非領主説」'''も含めた活発な議論が行われた
 
この研究は日本史学に大きな影響力を与え、在地領主と[[武家政権]]([[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]])成立史を結びつける研究や[[平安時代]]後期に始まり[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に至る在地領主の形成と解体の過程を探る研究などが見られ、反対に石母田説への批判論(「非領主論説」=在地領主を古代的存在である奴隷制支配者と捉える説や荘園領主の[[被官]]に過ぎないとする説)も含めた活発な議論が行われた。領主制論を引き継ぐにしても、荘園制や荘園領主を古代的な存在と見る点を批判して、それともども総体として封建領主階級を構成していたと捉えるようになる。
[[1970年代]]に入ると、在地領主の研究の進展に従い石母田の理論のみでは在地領主を十分には捉えきれないとする指摘が出されるようになった。例えば、在地の流通機構への支配拡大や地縁的・血縁的結合を利用することで広範な地域支配者としての国人領主へと転換していく者と反対に在地領主が村落内部において再生産されていく村落領主と称すべき土豪・名主層に分けられることが明らかとなってきた。更に武士が必ずしも在地領主であった訳ではない事例や在地領主ではない在地居住の武士(「村の侍」)の存在、そして領主に支配される在地の民衆が必ずしも支配を甘受するだけの存在ではなく主体的・自律的性格を併せ持った存在であったことなども指摘されるようになった。また、在地領主の支配の権限を[[職の体系]]と結びつける考え方、私的な「[[イエ]]」支配の延長線上に捉える考え方、地域の安全保障・公共機能の支配・維持者である「長老」としての役割を重視する考えかたなどを重視する考え方なども出されることとなった。そして、石母田以来武士の領主的な性格を重要視する余り、在地領主が武士という[[暴力の独占|暴力装置]]であることを無視されているとする批判も出されるようになった。
 
[[1970年代]]に入ると、在地領主の研究の進展に従い石母田の理論のみでは在地領主を十分には捉えきれないとする指摘が出されるようになった。例えば、農業経営から在地の商業流通機構への支配拡大や地縁的・血縁的結合を利用することでの積み重ねにより広範地域支配者としてを束ねる上位権力に結びついていく[[国人領主へと転換していく者]]層反対に在地領主が村落内部におい留まって再生産されていく[[村落領主]]と称すべき[[土豪]][[名主]]層に分けられる化していくことが明らかとなってきた。さら武士が必ずしも在地領主であったわけではない事例や在地領主ではない在地居住の武士(「村の侍」)の存在、そして領主に支配される在地の民衆が必ずしも支配を甘受するだけの存在ではなく主体的・自律的性格を併せ持った存在であったことなども指摘されるようになった。また、在地領主の支配の権限を[[職の体系]]と結びつける考え方、私的な「[[イエ]]」支配の延長線上に捉える考え方、地域の安全保障・公共機能の支配・維持者である「長老」としての役割を重視する考えかたなどを重視する考え方なども出されることとなった。そして、石母田以来武士の領主的な性格を重要視する余り、在地領主が武士という[[暴力の独占|暴力装置]]であることを無視されているとする批判も出されるようになった。
 
また、在地領主の支配の権限を[[職の体系]]と結びつける考え方、私的な「イエ」支配の延長線上に捉える考え方、地域の安全保障・公共機能の支配・維持者である「長老」としての役割を重視する考え方なども出されることとなった。石母田以来、武士が領主的な存在、古代奴隷制を克服し歴史を発展させた主体として重要視されるあまり、[[暴力の独占|暴力装置]]であることを無視されているとする批判も出されるようになった。
 
石母田領主制論は現在ではそのまま通用するものではなくなったが、中世封建制社会研究の発展を大きく促した学説であり、また中世社会の解明のため在地領主制~国人領主制の研究は今日でも重要な意義を有している。
 
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
*[[本所]]
*[[荘官]]
*[[封建領主]]