「ランディ・レディ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
44行目:
{{by|1980年}}の[[ドラフト会議 (MLB)|MLBドラフト]]6巡目で[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]に指名され契約。{{by|1983年}}9月4日に[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]初昇格。{{by|1986年}}シーズン途中に[[サンディエゴ・パドレス]]に移籍し、翌{{by|1987年}}は[[規定打席]]に僅かに不足ながら[[打率]].309、12[[本塁打]]、54[[打点]]をマークした。
 
{{by|1995年}}オフに当時[[千葉ロッテマリーンズ]]で[[ゼネラルマネージャー|GM]]を務めていた[[広岡達朗]]が「シュアな打撃は日本向き」という理由で獲得を決定し、入団。同期入団の[[ジャック・ドウティー]]と同様にこの年活躍した助っ人、[[フリオ・フランコ]]を解雇してまでの獲得だったことに加え、メジャーの実績はジャックより豊富な分、期待は大きかった。しかし来日当時36歳とすでに選手としては峠を越えていて、直球には力負けし、変化球には全くタイミングが合わないなど、フランコにはるか及ばずジャックと同じような流れで不振が続いた。結局ジャックよりは多少ましな数字を残したとは言え五十歩百歩な感は否めず、ジャック解雇後間を置かずして解雇された。この外国人コンビの極度の不振はチームの得点力不足を招き、この年のロッテのBクラス転落、さらには広岡、監督の[[江尻亮]]の辞任へとつながっていった。
 
{{by|2009年}}から{{by|2011年}}まで[[サンディエゴ・パドレス]]の打撃コーチを務めた。