「誉田八幡宮」の版間の差分

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'''誉田八幡宮'''(こんだはちまんぐう)は[[大阪府]][[羽曳野市]]にある[[神社]]である。旧[[社格]]は[[府社]]。主祭神は[[応神天皇]]で、[[応神天皇陵]]のすぐ南に鎮座する。
 
== 歴史 ==
社伝ではによると、[[欽明天皇]]20年([[559年]])に[[任那]]の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に社殿神廟が設置されたこともって創立したのに始まるとしており、そいる。のことから「日本最古の[[八幡宮]]を称している。実際奈良時代には、もっと後の八幡信仰が盛ん[[行基]]た時代にて[[神宮寺]]の長野山護国寺も創されたものとみられる。[[永承]]6年([[1051年]])の[[後冷泉天皇]]行幸の際に、元の鎮座地から1[[町 (単位)|町]](約100m)ほど南の現在地に遷座した。
 
八幡神が[[源氏]]の[[氏神]]とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、[[享徳]]3年([[1454年]])より始まった河内守護・[[畠山氏]]の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた[[織田信長]]により、社領をすべて奪われた。
 
その後、[[豊臣秀吉]]は社領200石を寄進し、社殿を再建した。[[天正]]14年([[1586年]])に社殿が焼失したため、[[豊臣秀頼]]が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に[[大坂夏の陣]]・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
 
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
 
[[File:Konda-hachimangu01r.jpg|thumb|right|200px|南大門]]
[[神宮寺]]として長野山護国寺があったが、明治初年の[[廃仏毀釈]]により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
 
== 文化財 ==
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* 薙刀 無銘大和物・鉄蛭巻薙刀拵(鎌倉時代)
* 伏見天皇宸翰後撰和歌集 巻第廿(鎌倉時代)
 
== 日の丸神酒 ==
[[正月三が日]]に振舞われる[[神酒]]が[[赤ワイン]]であることでも知られ、白い[[盃]]とのコントラストから「[[日本の国旗|日の丸]]神酒」と呼ばれている。羽曳野市周辺は[[ブドウ|ぶどう]]の生産が盛んで[[ワイン]]の醸造も行われている。
 
== アクセス ==