「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分

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しかし1937年初頭には経済分野での指導権をゲーリングに奪われ{{sfn|大島通義|1988|pp=29}}、1937年11月に経済相と戦争経済全権委員を解任された。ただし代わりに無任所相に任じられ、形式的な閣僚の地位はその後もしばらく保持した。またライヒスバンク総裁職は保持しつづけたが、本来ライヒスバンクに属していた通貨信用政策と資本市場に対する統制権も奪われていった{{sfn|大島通義|1988|pp=29}}。軍事費による政府支出と借り入れはますます増大し、1938年にはライヒ政府の国庫は危機的な状態となり、財務相の[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]との関係も悪化した{{sfn|大島通義|1988|pp=26}}。1939年1月7日、シャハトは軍事費が増えすぎたせいでインフレーションが起こっているとして、財政金融政策、特に軍事財政の中止を訴える手紙をライヒスバンク理事全員と連名で、ヒトラーに送った{{sfn|大島通義|1988|pp=28}}。1939年1月19日にはライヒスバンク総裁からも解任された<ref name="成瀬403">阿部、403頁</ref>。無任所相の地位は形式的に保持していたが、1943年1月に失った<ref name="ヴィストリヒ94"/>。シャハトはナチ党政権中枢に最後まで残っていた[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]代表であった<ref name="ヴィストリヒ94">ヴィストリヒ、94頁</ref>。
 
[[1944年]]7月20日に、[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐を中心にした[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂]]事件が発生。シャハトは事前にこの暗殺計画への参加を持ち掛けられてはいたが、「ヒトラー内閣に代わって樹立される新政府についてもう少し知る必要がある」と曖昧な返答して距離を保ち、計画には加わっていなかった。しかし事件後には連座していたとされて1944年7月29日に逮捕された<ref name="パーシコ下183184">パーシコ、下巻184頁</ref>。
 
[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]、ついで[[フロッセンビュルク強制収容所]]に“特殊囚人”として収容されたが、1945年4月に[[アメリカ軍]]によって解放された<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
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シャハトは自分がナチスと無縁であることを示すために他の被告と関わりたがらず、自ら進んで孤立していた。「何の罪も犯していない」自分が被告人にされたことについてシャハトは「[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ジャクソン]]氏は、裁判が公正である事を示すために一人無罪になる者を入れようとして、私を被告人にしたのだよ」と語っていた<ref name="パーシコ下182-183">パーシコ、下巻182-183頁</ref>。
 
裁判の証人席にたった被告人のうちシャハトだけが[[ドイツ語]]ではなく[[英語]]で証言した。恐らくアメリカとの関係が深い自分の出自を印象付けるためだったと思われる<ref name="パーシコ下183">パーシコ、下巻183頁</ref>。
 
しかしアメリカ検事ジャクソンはシャハトに手心を加えるつもりはなく、「被告の中でも最も軽蔑すべき人物はシャハトだ。シャハトには選択の自由があった。ナチ党に協力することもできれば、反対することもできたんだ。ナチスを政権に押し上げる上で、あの男ほど一個人として貢献した者はおらんよ」と語っていた<ref name="パーシコ下272">パーシコ、下巻272頁</ref>。
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5月2日から始まった検察側尋問でアメリカ検事ジャクソンは四カ年計画責任者ゲーリングへ宛てて送ったシャハトの手紙を提出した。その中でシャハトは「世界市場においてドイツの開かれた機会をつかむために一時軍備を削減する必要」を訴えており、「そうすれば輸出が増大し、近い将来軍備増強ができる」「軍備の一時停止は将兵の訓練の時間を与えることにもつながり、これまでの.軍備の技術的結果を再検討して改善の余地を与える物である」と説いていた。これによってジャクソンはシャハトが平和のために軍備増強の停止を訴えていたのではないという印象を法廷に持たせようとした。これに対してシャハトは「それは戦術的な書簡である。私の希望は軍備増強ではなく、軍備の制限にあるのだ。だがゲーリングに率直に言っては聞き入れられるわけがないからだ」と返答した<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.145-146]]</ref>。
[[File:Fritzsche, Papen, Schacht with Andrus.jpg|250px|thumb|ニュルンベルク裁判で無罪判決を受けて釈放された三人。左から[[ハンス・フリッチェ|フリッチェ]]、刑務所長{{仮リンク|バートン・アンドラス|en|Burton C. Andrus}}大佐、[[フランツ・フォン・パーペン|パーペン]]、シャハト。]]
ジャクソンはシャハトが党幹部とともに行進している写真、[[ナチ式敬礼]]をしている写真、ユダヤ人の店の顧客になる者を「反逆者」と批判した演説、シャハトがナチ党に献金していたことなどを次々と証拠として提出した<ref name="パーシコ下183">パーシコ、下巻183頁</ref>。さらにジャクソンは1940年にヒトラーがパリより凱旋した時のニュース映像を法廷で流した。そこにはシャハトが自らヒトラーの方へ近づいていって、両手でヒトラーの手を握って激しくふっている姿が映っていた。これによって1940年の対仏勝利の際にヒトラーを冷たく突き放したというシャハトの証言が信用ならないことを証明した<ref name="時事147">[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.147]]</ref>。さらに1938年のアンシュルスでオーストリア中央銀行をライヒスバンクに併合する際にシャハトが「私が総裁である限り、ライヒスバンクは国家社会主義的であることをやめない」と演説したことを指摘した。そのうえで「これらは被告がナチス政権に対する誓いを放棄したと称している時期と相反しているが、どういうことなのだろうか」と追及した。シャハトもこれにはぐうの音も出ず、「私はドイツの敵となった男に対してはどんな事もする決心であった。私は自分の手でヒトラーを殺したかったのだ」とだけ述べて証言台を去った<ref name="時事147">[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.147]]</ref>。
 
1946年10月1日の判決は「シャハトはドイツの再軍備計画の中心人物であり、彼の取った手段、特にナチ政権の初期におけるそれは、ナチ・ドイツを軍事勢力として急速に上昇せしめたことに対して責任がある。しかし再軍備そのものは憲章のもとでの犯罪ではない。憲章6条のもとでの平和に対する罪とするためには、シャハトが侵略戦争を遂行するためのナチ計画の一部として、再軍備を実行したことが示されなければならない。シャハトは他の欧州諸国と平等の立場にたった外交政策を遂行できるように強力で独立したドイツ建設を目指して再軍備計画に参加したと主張しており、ナチが侵略目的のために再軍備しつつあることを発見するや、彼は再軍備の速度の遅滞化に努めたと陳述した。シャハトは最初は地位から去ることによって、後には暗殺によってヒトラーを除去する計画に参加した。1936年に早くもシャハトは再軍備の制限を主張し始めた。もし彼の主張した通りの政策が実行されていれば、ドイツは欧州戦争準備をなすことはなかったであろう」としてシャハトを第一起訴事項、第二起訴事項ともに無罪とした<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.309]]</ref>。