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方子妃は、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫を支えた。[[1921年]](大正10年)、第一子[[李晋|晋]]が誕生する。[[1922年]](大正11年)4月、夫妻は、晋を連れて朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨んだが、帰国直前に晋は急逝した。急性消化不良と診断される。李太王を毒殺されたと考えた朝鮮側による報復の毒殺説<ref>方子自身、著書『流れのままに』で「父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。」と書いており、毒殺を疑っていたようである。</ref>がある一方で、日本軍部による毒殺説<ref name="yomi19840630"/>も流布されている。第一子を失った方子妃は、日本に留学した李垠の異母妹・[[徳恵翁主|李徳恵]]<ref>徳恵は精神・知能に先天性障害があったが、少女期には小康状態にあった。[[徳恵翁主|本人の項]]参照。</ref>の身辺を親身に世話した<ref>1925年5月30日 読売新聞「御遊学中の徳恵姫のため朝鮮料理をお学び やさしき方子妃殿下のお心尽し」</ref>。その後、一度の流産を経て、[[1931年]](昭和6年)、第二子[[李玖|玖]]が誕生した。
 
=== 戦後、韓国人として ===
日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と[[日本国憲法]]施行に伴い、李垠・方子夫妻は[[王公族]]の身分と[[日本国籍]]を喪失して一[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]となった。邸宅・資産を売却しながら、細々と生活を送っていた。
 
李方子
夫妻は[[大韓民国]]の初代[[大統領]]であった[[李承晩]]により帰国を妨げられたまま、李垠が[[1960年]](昭和35年)に脳梗塞で倒れる。李承晩退陣後の[[1963年]](昭和38年)11月21日、[[朴正煕]]大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され<ref name="yomi19840703">1984年7月3日 読売新聞「[人]李方子=5 市井の“妃” 一生いばらの道」</ref>、[[昌徳宮]]内に住まうこととなった。[[1970年]](昭和45年)、李垠と死別した。
 
韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に[[知的障害児]]・[[肢体不自由児]])に取り組んだ。趣味でもあった[[七宝焼]]の特技を生かしソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、[[李氏朝鮮]]の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、"明暉"は李垠の、"慈恵"は方子自身のそれぞれの雅号である<ref name="yomi198207">1982年7月17日 読売新聞「[世界の中の日本人]韓国で福祉活動する李王朝“最後の王妃”李方子さん」</ref>。方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており<ref name="yomi198207"/>、やがて功績が認められ、[[1981年]](昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
 
また、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]を始めとする皇族とも会う機会はあった。
 
[[1989年]](平成元年)[[4月30日]]逝去<ref>2009年4月27日 [[産經新聞]]「【から(韓)くに便り】ソウル支局長・[[黒田勝弘]] 故・李方子さんのこと」</ref>、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準[[国葬]]として執り行われ、日本からは[[三笠宮崇仁親王]]夫妻が参列した。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。
 
== 身位 ==