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1921年に祖父ニコラ1世が死去した際、伯父の元王太子[[ダニロ・ペトロヴィチ|ダニーロ]]が王家の家督相続権を放棄する騒動が起きたため、わずか13歳のミハイロが摂政の下でモンテネグロ王家の家督を引き継いだ。1929年、{{仮リンク|アント・グヴォズデノヴィッチ|en|Anto Gvozdenović}}将軍の摂政が終わって「親政」を開始したミハイロは、その年のうちにモンテネグロ王位請求権を放棄し、ユーゴスラビア政府に忠誠を誓った。従兄にあたるユーゴスラビア王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]はミハイロの王位請求権放棄を快く受け入れ、[[王室費]]からミハイロに年金を与えることを取り決めた。
 
1941年1月27日にパリにおいて、路面電車の運転手の娘であるジュヌヴィエーヴ・プリジャン({{Lang|fr|Geneviève Prigent}}, 1919年 - 1990年)と結婚した。同年、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]に伴い、ミハイロはナチ党政府に拘束され、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ボーデン湖]]畔の城に住まわされた。ミハイロはこの城で[[ガレアッツォ・チャーノ]]伯爵と[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]に、[[枢軸国]]が占領したユーゴスラビアの一部に建国した{{仮リンク|モンテネグロ独立 (1941年-1944年)|label=傀儡国家|enit|KingdomRegno ofdel Montenegro (1941–19441941-1944)}}の王位に就くよう求められたが、これを拒否した。ナチ党政府はミハイロを強制収容所に送ったが、1943年になって伯母のイタリア王妃[[エレナ・デル・モンテネグロ|エレナ]]の嘆願により解放された。
 
ミハイロはフランスに帰国したものの、すぐにナチ党政府により再度拘束され、[[チェコスロヴァキア]]のアイゼンベルク城(現在の[[チェコ]]領[[ウースチー州]][[ホルニー・ジジェティーン]]の城)内に設けられた捕虜収容所に収監された。彼は大戦末期になってようやく解放され、フランスに戻った。1947年、ミハイロは[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]の招聘で[[ベオグラード]]に移住し、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]政府の外務省儀典局の局長の職を与えられた。しかしチトーとの関係はすぐに険悪になり、1948年にはフランスに帰った。