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[[キプチャク草原]]を根拠地とした[[ジョチ・ウルス]]はイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。[[15世紀]]になると、[[カザン・ハン国]]、[[アストラハン・ハン国]]、[[クリミア・ハン国]]、[[シャイバーニー朝]]、[[カザフ・ハン国]]、[[シビル・ハン国]]といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。
 
現在の[[ウズベク]]人と[[カザフ]]人の祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家の[[アブール=ハイル・ハーン (シャイバーニー朝)|アブール=ハイル・ハーン]](在位:[[1426年]] - [[1468年]])に率いられた集団であった。彼らは'''ウズベク'''と呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、[[シルダリヤ川|シル川]]中流域に根拠地を遷したが、[[ジャニベク・ハーン|ジャーニー・ベク・ハーン]]と[[ケレイ・ハーン]]がアブール=ハイル・ハーンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離し、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくは'''カザフ'''と呼んで区別するようになった。アブール=ハイル・ハーンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団も[[ムハンマド・シャイバーニー・ハーン]]のもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル,フェルガナ,ホラズム,ホラーサーンといった各地域を占領して[[シャーバーニー朝]]と呼ばれる王朝を築いた。
 
[[1599年]]にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権は[[ジャーン朝]](アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は[[1756年]]に[[マンギト朝]]によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都が[[ブハラ]]に置かれたため、この3王朝をあわせて[[ブハラ・ハン国]]と呼ぶ。また、ホラズム地方の[[ウルゲンチ]]を拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は[[17世紀]]末に[[ヒヴァ]]に遷都したため、次の[[イナク朝]]([[1804年]] - [[1920年]])とともに[[ヒヴァ・ハン国]]と呼ばれる。そして、[[18世紀]]にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権は[[コーカンド]]を首都としたため、[[コーカンド・ハン国]]と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた三つの国家を'''3ハーン国'''と称する。