「賀来鎮綱」の版間の差分

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神職にありながら武勇と兵術を好み、武将として活躍。忠節の志の深い人物で、[[大友義鎮|大友宗麟]]の密旨を受けて偽って[[島津氏]]に降り、敵情を探った。[[豊薩合戦]]の際には島津勢の将として参加して、敵の戦略を一々、[[臼杵城|丹生島]]に密告した。島津勢の大将[[島津家久]]はこれに気付き、鎮綱親子を招集して詰問するが、剛胆をみせて難を切り抜けた。[[天正]]15年([[1587年]])3月の豊後撤収まで家久の陣中にあり、退却する島津勢を山間部で伏兵で襲い、首級を多く挙げた。これを丹生島に送って実検を受けて宗麟より激賞され、朱印状を賜った。[[豊臣秀吉]]が[[九州平定|九州征伐]]に出陣すると、鎮綱は島津氏に一旦降ったことで吟味されるが、内通して働いたその忠節を秀吉よりも賞されて、[[感状]]を受けた。
 
その後、[[文禄・慶長の役]]にも出陣し、同戦役での不手際で義統が秀吉によって[[改易]]されると、[[牢人]]になり、[[豊後国]]を出る際に鎮綱は義統に二君に仕えないと堅く約束した。[[萩]]に来てからは、[[家伝]][[武芸]]を指南した。
 
==参考文献==