「斯波氏」の版間の差分

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だが元は嫡子であり足利宗家とは別に[[征夷大将軍|将軍]]直臣たる[[御家人]]となった家氏は、自立できるほどの地位と所領を持てずに宗家の家人になっていった他の足利氏庶流([[仁木氏]]・[[細川氏]]など)とは一線を画した存在であった。家氏は、弟頼氏の死後宗家を相続した[[足利家時|家時]]の幼少時にその後見人となって惣領を代行するなど、一門中でも宗家に準ずる格を有した。
 
この子孫が代々[[尾張国|尾張守]]に叙任され、'''足利尾張家'''と呼ばれる。鎌倉時代には足利姓を称する別流の扱いであり、斯波を名字とするのは室町時代になってからのことである。「斯波」姓で記されたものでは、『[[荒暦]]』[[応永]]2年7月26日条に「管領斯波禅門(義将)」とあるものの、古記録ではさらに時代が降り、『[[満済准后日記]]』応永29年11月20日条の「斯波武衛(義淳)」が初見である<ref name=kinoshita>木下聡「斯波氏の動向と系譜」(所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)</ref>
 
 
==武衛家==
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尾張のみを残すところとなった武衛家であるが、乱後にすぐさま守護代織田氏の傀儡となったわけではなく、斯波義敏の子[[斯波義寛|義寛]]が9代将軍[[足利義尚]]による[[六角高頼]][[長享・延徳の乱|征伐]]へ織田氏(応仁の乱で大和守家・伊勢守家の2つに分裂していた)を従えて参陣しているように、武衛家は依然として守護代権力に対して優越した存在であった。
 
義寛の子[[斯波義達|義達]]の頃にも、遠江奪還のための出陣を繰り返す等、尾張守護の実態は保っていた。義達は、対立した守護代[[織田達定]](大和守家)を合戦で討ちとるなどして織田氏の勢力を抑え、あるいは尾張を中心とした[[戦国大名]]へと成長する可能性もあった。しかし、[[今川氏親]]に敗れて遠江奪還に失敗し、義達の幼少の子[[斯波義統|義統]]に家督を譲った。義達は通説では[[大永]]元年(1521([[1521]])に没したとされているが、近年の研究ではそれから48年後の[[永禄]]12年([[1569年]])まで健在であったとする説が有力になっている。これが事実だとすれば、義達はその後の武衛家の没落を目の当たりにしたことになる<ref name=kinoshita>木下聡「斯波氏の動向と系譜」(所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)</ref>。
 
義統が当主になると、武衛家は急速に衰え、その一方で大和守家の重臣[[織田信秀]]が頭角を現し、守護や守護代の勢力をしのぐようになる。[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])に守護義統が守護代[[織田信友]]に殺され、義統の嫡子[[斯波義銀|義銀]]は織田信秀の跡を継いだ[[織田信長|信長]]を頼って落ち延びた。信長にとって信友(大和守家)は本家・主君筋だが、信長は守護殺害の仇討を名分に信友を討ち取った。信長は織田伊勢守家や織田一族も倒し尾張一国をほぼ平定した。