「マルティヌス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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| 本名 =
| 生年月日 = 不明
| 生地 = [[ファイル:FlagSimple of Palaeologus EmperorLabarum.svg|15px]][[東ローマ帝国]][[ウンブリア州|ウンブリア]][[トーディ]]近郊
| 没年月日 = [[655年]][[9月16日]]
| 没地 = [[ファイル:FlagSimple of Palaeologus EmperorLabarum.svg|15px]]東ローマ帝国[[ケルソネソス|ケルソン]]
| 埋葬地 =
| 原国籍 =
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'''マルティヌス1世'''({{lang|la|'''Martinus I'''}}、? - [[655年]][[9月16日]])は第74代[[ローマ教皇]](在位[[649年]][[7月5日]] - [[653年]])。[[カトリック教会]]・[[正教会]]で聖人で、カトリック教会での記念日は[[4月13日]]<ref name="laudate">{{cite web|title=Laudate 聖人カレンダー|url=http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=041301|publisher=聖パウロ女子修道会|accessdate=12 October 2015}}</ref>。[[日本のカトリック教会]]では'''聖マルティノ一世'''<ref>{{cite web|title=歴代教皇リスト|url=http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/pope/popelist.htm|publisher=カトリック中央協議会|accessdate=12 October 2015}}</ref>、'''聖マルチノ1世教皇殉教者'''<ref name="laudate"/>などとも呼ばれる。
 
[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[コンスタンス2世]]が[[両性単意論]]を支持する勅令([[テュポス]])を発布した際、[[ラテラン教会会議 (649年)|ラテラン教会会議]]でこれを異端と決議したため、[[653年]]に東ローマ帝国の[[ラヴェンナ]]総督府によって捕縛された上[[コンスタンティノープル]]に連行された。裁判の結果、[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス|ケルソン]]に配流され、その地で没する。
 
彼の逮捕は、[[7世紀]]の半ばになってもコンスタンティノープルの皇帝の権威・権力が西方にも及んでいたことを示す一つの例である。
 
== 脚注 ==