「村田珠光」の版間の差分

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== 珠光の茶の湯 ==
能阿弥により整備された会所の茶から能や連歌の影響を受け一休宗純との関わりから禅を学び、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し[[わび茶]]の精神をつくった。その端は将軍家や有力大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物道具、それらを飾り付ける室礼の方法など当時隆盛していた会所の茶のスタイルとは対抗しなかったことによるものであろう。珠光の作り出した茶室は縮小された4畳半で、書院風の[[宝形造]]。床は一間。会所では主に飾りと点て出しのために使われていた[[台子]]を点茶用の棚として客前に登場させた(南方録)。
 
こうして道具賞玩の場であったそれまでの茶会を精神性の高い交流の場としようと試みた珠光の茶は「奈良茶湯」とも呼ばれ、能阿弥の紹介によって珠光の茶湯に接した将軍[[足利義政]]は珠光のパトロンとなった<ref name=okamoto>[http://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/vol81/magazine81_002.html#m81_07 大乗化する茶の湯]岡本浩一、『アステイオン』81号、2015年</ref>。珠光は茶席の侘びの思想として「月も雲間のなきはいやにて候」という言葉を残している<ref name=okamoto/>。