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{{改名提案|メンテム||t=ノート:海隆阿|date=2015年12月}}
{{脚注の不足|date=2012年2月|ソートキー=人1433年没}}
'''孟特穆'''(メンテム、モンティムール、[[満州語]]:{{mongol|ᡩᡠᡩᡠ<br>ᠮᡝᠨᡨᡝᠮᡠ}},転写:dudu Mentemu、漢語:'''猛哥帖木耳、孟哥帖木
== 概略 ==
清朝の所伝によると[[都督]]・孟特穆(dudu mentemu)と称し、乱を避けてオドリ・ヘチェン(鄂多里城)から亡命したファンチャ(Fanca、樊察、[[:zh:凡察|凡察]])の子孫ということになっている。知略にとみ、祖先の仇討ちのために旧敵の子孫40数名をオドリ(Odoli、鄂多里)の西方1500里のヘトゥアラ(Hetu ala、赫圖阿拉、[[奉天省]][[興京]]老城)に誘い、半分を殺し半分は人質とした。さらに捕らえられていた同族の釈放を要求し
これらの伝説のもとになったのは、[[明|明朝]]や[[李氏朝鮮|朝鮮]]の記録に見える[[女真族]]の孟哥帖木
朝鮮の記録は『満州実録
== 参考文献 ==
*中島辣『清朝史談』(1918年、善隣書院)
*『対校清太祖実録』(1974年、国書刊行会)
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