「ヴォルフガング・フォン・ヘッセン」の版間の差分

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銀行員としてのキャリアを積み、[[ハンブルク]]の[[M・M・ヴァールブルク&CO]]や[[ヴィースバーデン]]の[[商工会議所]]で働いた。1924年9月17日、[[ドイツ国首相|ドイツ帝国宰相]]を務めたバーデン大公家家長[[マクシミリアン・フォン・バーデン|マクシミリアン]]の娘{{仮リンク|マリー・アレクサンドラ・フォン・バーデン|label=マリー・アレクサンドラ|en|Princess Marie Alexandra of Baden}}と結婚した。
 
1932年4月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党、NSDAP)に入党し、1933年の[[ナチ党の権力掌握]]後、[[ヘルマン・ゲーリング]]の世話で{{仮リンク|ヘッセン=ナッサウ州|en|Hesse-Nassau}}の{{仮リンク|オーバータウヌス郡|de|Obertaunuskreis}}の郡長に任命され(ヘッセン=ナッサウ州では兄フィリップが州知事を務めていた)、その後4月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党、NSDAP)に入党した。また[[ドイツ国防軍|軍]]にも入隊し、陸軍少にまで昇進している。[[第二次世界大戦]]ではドイツ軍の一員として3年間フィンランド領[[ラッピ州|ラップランド]]に駐屯し、1943年にはフィンランドの最高司令官[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム|マンネルヘイム]]元帥より三級{{仮リンク|自由十字勲章|en|Order of the Cross of Liberty}}({{Lang|fi|Vapaudenristin ritarikunta}})を授与されている。1944年1月29日、妻マリー・アレクサンドラが{{仮リンク|フランクフルト大空襲|en|Bombing of Frankfurt am Main in World War II}}の犠牲となって死亡した。
 
戦後、ナチ党への協力姿勢が災いして短期間抑留されている。1948年9月7日、家内法では[[貴賤結婚]]とされる平民女性のオッティーリエ・メーラー({{Lang|de|Ottilie Möller}}, 1903年 - 1991年)と再婚した。その後は{{仮リンク|クロンベルク・イム・タウヌス|label=クロンベルク|en|Kronberg im Taunus}}の{{仮リンク|フリードリヒスホーフ城|en|Schlosshotel Kronberg}}で暮らし、{{仮リンク|ヘッセン家の資産管理団体|de|Hessische Hausstiftung}}を経営した。