「金沢明子」の版間の差分

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[[原田直之]]と共に[[日本放送協会|NHK]]の番組『[[民謡をあなたに]]』の司会を務めた。その中でジーパンをはいて民謡を歌う姿が当時は新鮮で人気を決定的にした。津軽民謡を得意としたが三味線奏者の[[本條秀太郎]]に師事したことによりレパートリーを広げ、民謡のレパートリー300曲と言われその場でリクエストに答えて即座に歌うコーナーもこなしていた。結果、[[1979年]]から2年連続『[[NHK紅白歌合戦]]』に出場。一日3時間しか寝られないというほどの売れっ子となり民放でも大活躍したがフジテレビの社員と結婚後、人気が急落した。離婚後、歯科医と再婚。
 
[[1982年]]に[[大瀧詠一]]プロデュースの『'''[[イエロー・サブマリン音頭]]'''』がヒットした。この曲は[[ビートルズ]]結成20周年記念いうことであったが、多くのまじめな[[ビートルズ]]ファンから顰蹙(ひんゅく)を買って企画された。
 
[[寺田創一]]による[[omodaka]]にボーカルとして参加している。
だが今ではこういう活動もクロスオーバーの成功例とも考えられ、[[ワールドミュージック]]の流れに乗ったという評価もある。事実、[[寺田創一]]による[[omodaka]]という''音楽とモーション・グラフィックスの突然変異的融合を試行錯誤してきた企画''にボーカルとして参加しており、テクノトラックに民謡ボイスを乗せて、 歌い上げている。ただしomodaka名義でのライブには映像で出演しており、本人が直接ステージに立つ事は無い。しかしながら本人映像の前にマイクが設置されるため、金沢本人がステージで歌っているようなパフォーマンスがされている。
 
清酒[[大関 (酒造メーカー)|大関]]のCMのほか、ロウソクの炎を揺らさずに歌う[[日東あられ新社|日東あられ]](現在は[[越後製菓]]などに譲渡)のCMも話題になったが、その後充電期間を置きながらも地道に歌手として活動。現在は民謡よりも演歌を主体に活動している。