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<ref>1954年(昭和29年)12月29日宮内庁告示第8号「崇仁親王妃百合子殿下親王御出産」</ref>
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2人の兄[[秩父宮雍仁親王|秩父宮雍仁]]と[[高松宮宣仁親王|高松宮宣仁]]は子供どもがいないまま生涯を閉じ死去したのに対し、三笠宮崇仁は昭和天皇長兄裕仁同様に多くの子供どもに恵まれた。しかし敗戦後は、[[昭和天皇]]と[[内廷皇族]]はとも発足の遅かく、った三笠宮家は財秩父・高松両家よりも資産が最も少に恵まれない中なかで多くの子を育てざるを得ず、かなり厳皇族としい戦後ての格式を生き抜く事とな保つには苦心があった。
しかし、崇仁親王の子息孫は男子女性の比率が高い。特に恵まれず皇族の身分を有する者は女性のみであるため、現行制度では近い将来的に三笠宮の系譜家は断廃絶の見込みであとなる。また、崇仁親王自身が[[長寿]]という関係もあるが、三男憲仁親王が[[2002年]](平成14年)に[[心室細動]]による[[急性心不全]]で薨死去。長年にわたり[[癌]]を患っていた長男寛仁親王も[[2012年]](平成24年)に[[多臓器不全]]で薨死去。さらに、同じく長年にわたり病弱であった次男宜仁親王も[[2014年]](平成26年)に[[急性心不全]]で薨死去。これによりし、崇仁親王は男子3人全員に先立たれる形となっ不幸に見舞われた。
孫が9人(うち皇族女子5人)、曾孫が4人(全員がいる(4人とも最年長の孫[[近衛忠大]]の子)いる。存命の皇族の中で曾孫がいるのは三笠宮崇仁夫妻のみである。また、明仁の[[叔父]]・[[叔母]]で健在なのも崇仁親王のみである。
== 逸話 ==
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