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* [[姦通]] - 姦通した女(アル・ザーニヤ)や姦通した男(アル・ザーニー)に対して、それぞれ100回の鞭打ちをするように書いてある(第2節)<ref>1冊でわかるコーラン - マイケルクック、p.185</ref>。
*[[ヒジャーブ]] - 現代においても、女性信者のヒジャーブの着用は義務(=[[ワージブ]])か否かに関して諸説あるが、この章の第31節の記述を解釈して判断している場合がある<ref>[http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/awr_94.html 『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』/第7章 Q94:イスラーム教徒の女性はヴェールをかぶらなくてはならないのですか。] - [[AA研]]</ref>。
 
 
 
【スーラ】
 
あらゆる慈悲の源、慈愛深きアッラーの御名において。
すべての創造主であるアッラーこそ称賛を受けるのに相応しい御方。
アッラーこそは、すべての慈悲の源であり慈愛深き方であられる。
そして、最後の審判の主宰者であられる。
わたしたちは、あなただけを崇め仕え、あなたの救いだけを待ち望む。
わたしたちを正しい道に導きたまえ。
あなたが御恵みを下された人々の道に導きたまえ。あなたが怒りの顔を向けられた者たちの道でもなく、迷う者たちの道でもなく。
 
 
 
1.これが、アッラーが下されたスーラである。アッラーが定められたもので、明瞭な種々の印がこの中にある。あなた方はこれに留意しなさい。
 
2.【姦通した者は、それが男であっても女であっても、それぞれ、100回鞭打たなければならない。あなたがアッラーと最後の審判を信じるならば、アッラーの定めに基づき、情に負けてはならない。そして、一団の信者に、彼らの処刑に立ち会わせなさい。
 
3.姦夫は、姦婦か多神教徒以外とは結婚する事は出来ない。姦婦は、姦夫か多神教徒以外とは結婚する事は出来ない。このことは信者に対して禁じられている。
 
4.貞節な女を非難して4名の証人を上げられない者には、80回の鞭打ちを加えよ。決してこのような者の証言を受け入れてはならない。彼らは主の掟に背くものたちである。
 
5.しかし、その後悔いて自ら改める者は別である。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。
 
6.自分の妻を非難するもので、自分以外に証人がない場合は、単独の証言で、自分の真実な事をアッラーにかけて四度誓いなさい。
 
7.そして、五度目に、「もし自分の言葉が虚偽ならば、アッラーの怒りが自分の上に下るように。」と誓いなさい。このようにするならば鞭打ちは彼の妻に加えられる。
 
8.しかし、彼女がアッラーにかけて夫の言葉が虚偽である事を四度誓い、
 
9.五度目に、「もし夫の言葉が真実ならば、アッラーの怒りが自分の上に下るように。」と誓うならば、その鞭打ちは免除される。】
 
10.良く見てごらん。もし、これが真にアッラーの語られた事であり、アッラーの恩恵があなた方の上になく、慈悲もなければどのような状態となるのか。人は、このようなわずかな事であっても、疑心暗鬼となり、他人の目を恐れて戦々恐々となる。だから、アッラーは度々悔悟を許されるのだ。
 
11.また、この定めは虚言である。そして、この虚言を広めた者はあなた方の一団である。ここにこれを示すのは、災いとして示すのではない。あなた方のために身近な例として分かりやすいからここに示すのだ。この話の中のそれぞれの者は、自らが行った罪によりその罰を受ける。たとえば、《鞭打たねばならない》と定めた者は、その定めた事により自らの罰を受け、《鞭打つ者》は、鞭打つ行為による罰を受け、これを眺め、止めさせようともしなかった者は、《無慈悲》故に罰を受けるのだ。
 
12.あなた方は考えなければならない。信者の男も女も、彼らを、どうして好意的に捉えなかったのか。なぜ、彼らの悪を自分自身で背負い「これは明らかな中傷である」と語らなかったのか。
 
13.アッラーは、彼ら一人ひとりにこのように言われる。「あなた方はわたしの定めに違反しているではないのか。違反していないと言うのならば、あなた方が定めた通り4名の証人をなぜわたしに用意しないのか。」と。アッラーは御自身の定めと違う事を語る彼らを姦通する者と数えられるのだ。アッラーからご覧になられれば、彼らは虚言の徒である。
 
14.もし、あなた方に対するアッラーの恩恵と、現世から来世にわたる慈悲がなければ、この事件について話したことに対しても、アッラーは激しい懲罰を下さるであろう。
 
15.どうしてなのか。あなた方は舌先でそれを受け止め、あなた方の口は自分の知らない事を語っているではないか。そして、アッラーの御目には重大な事を軽く考えているではないか。
 
16.これは人が人の罪を見定め、人がその罪に対する罰をアッラーの名により与える行為である。アッラーの慈悲を人により否定する行為である。だから、あなた方はこれを聞いたとき、「これはわたしたちが語るべき事ではない。アッラーに讃えあれ。これは大変な中傷である。」と語るべきなのだ。
 
17.アッラーは、もしあなた方がイブラーヒームの如き純粋な信仰を持つ者ならば、このような事を決して繰り返してはならないと戒められる。
 
18.これは、アッラーがあなた方にアッラーの慈悲の印とはどういうものかを解き明かされたものである。
 
19.信仰する者の間に、このような醜聞を広める者、また、広まる事を喜ぶ者は、現世でも来世でも痛ましい懲罰を受けることとなろう。あなた方は何も知らなくとも、アッラーは御存じであられる。
 
20.アッラーの恩恵があなた方の上になく、慈悲もなかったならば、あなた方が何も知らなくとも、このような一事ゆえにその罰を受ける事となるのは明白である。ここにこのような例を引き、あなた方に親切に説明されるのもアッラーの慈悲故である。
 
21.信仰する者たちよ、悪魔の歩みに従ってはならない。あなた方がもし悪魔の歩みに従うならば、彼は必ず醜行と悪事をあなた方に命じるからである。アッラーの恩恵と慈悲がなければ、誰も罪なき者となる事は出来ない。しかし、アッラーは御心に叶う者を清められる。アッラーは全聴にして全知であられる。
 
22.あなた方の中、恩恵を与えられて裕福な者、能力のある者に、近親や貧者、またアッラーの道のために移住した者たちのための喜捨を強要してはならない。彼らを許し大目に見てやるがよい。そうすれば、アッラーはあなた方を赦し大目に見てくださるからである。アッラーは寛容であり、慈悲深くあられる。
 
23.無分別に貞節な女(肉体を持つ人)を中傷してはならない。このような行為は呪いを受ける行為だからである。このような行為を行うならば激しい懲罰を受ける事となろう。
 
24.その日、彼らの舌や手や足は、彼らの意志に反して、その行った事について立証をする事となる。
 
25.アッラーは彼らが受けるべき報いを彼らに下される。彼らは、アッラーが真理であり、すべてを御存じであられる事を知る事となろう。
 
26.不浄な女(肉体)は不浄な男(精神)に、不浄な男(精神)は不浄な女(肉体)。純潔な女(肉体)は純潔な男(精神)に、純潔な男(精神)は純潔な女(肉体)に。これらは、人の語る言葉によらず、また、人の定めにもよらない真理である。これゆえ、ある者は容赦を受け、ある者は栄誉ある恵みを受けるのだ。
 
27.あなた方信者よ、あなた方それぞれには相応しい信仰の家がある。許しを求めて、そこに属する者たちに挨拶するまでは、自分の家以外の家に入ってはならない。
 
28.もし、その家に誰もいないと分かったならば、アッラーのお許しがあるまでは、それに入ってはならない。もし、帰るように言われたならば帰りなさい。それはあなた方にとって清廉である。アッラーはあなた方が行う事を知っておられる。
 
29.また、あなた方にとって必需品が備えられている住民がいない信仰の家があったならば、そこに入る事は罪とはならない。これは、アッラーがあなた方が何を現すか、何を隠すのか御存じであられ、あなたのために用意された家だからである。
 
30.男の信者たち(精神的な信仰者)には、このように語れ。「自らの視線を低くして、貞潔を守れ(自分は偉いと思いあがらずに、唯、純粋にアッラーを信仰しなさい)。」アッラーは彼らの行う事を熟知していらっしゃる。
 
31.信者の女たち(肉体的な信仰者)にはこのように語れ。「視線を低くして、貞潔を守れ(自分は偉いと思いあがらずに、唯、純粋にアッラーを信仰しなさい)。自然と外に表れるもの以外は肉体の美を誇ってはならない。胸にヴェイルをかけなさい(胸中にある真の思いを他の人に強要してはならない)。それを現して良い相手は、自分の夫(自分自身の精神)と父(アッラー)のみである。ただし、夫の父(精神的な父)、夫の息子(精神的なあなたの子)、また自分の兄弟(同じ思いを持つ同志)、姉妹の息子(同志の精神的な息子)または自分の女たち(自分の身近な人々)、自分の右手に持つ奴隷または性欲を持たない供回りの男(自分の支配下にある精神的なもの)、また女の体(肉体)に興味を持たない幼児に対しては別である。また、彼女ら(肉体)の隠れた飾りを知らせるために、その足を打っては(その行動を強調しては)ならない。あなた方信者よ、皆一緒に悔悟してアッラーに返れ。そうすれば、必ずあなた方は成功する。
 
32.あなた方の中独身の者(人は精神のみと考えるもの)、また、自らをアッラーの奴隷とする精神を持つ者は、それぞれの連れ合いと結婚しなさい。すなわち、自分自身の肉体を大切にしなさい。肉による欲望を汚いものとする必要も否定する必要もない。こうすれば、もし、貧しいものであっても、あなたは祝福され裕福とされよう。アッラーは慈悲深く、あなたの事をご覧になられている。
 
33.自分を精神的なものとしか考える事ができない者、また、肉体的なものとしか考える事ができない者に、精神と肉体の合一を強制してはいけない。彼らが納得するまで待ちなさい。また、あなた方がある者の支配権を持っていたとしても、その者が被支配を望み、あなた方がその者を善良と認めるならばその支配権を放棄し、更に、あなたの財産の一部を与えなさい。強制はアッラーが嫌われるものである。あなたが他の者の肉体を自由に出来るからと言って、現世の欲望や利益を求めて醜行を強制してはならない。如何なる醜行であったとしても、もしそれが外の者の強制により行われたものならば、アッラーはそれを御赦しになられ、易しくいたわってくださるであろう。
 
34.これらは物事を明瞭にする為のアッラーの印である。これらの印も、あなた以前に過ぎ去った者たちの先例も、みな、主を畏れる者たちへの訓戒である。
 
35.アッラーは天地の光である。深いくぼみ(壁龕)の中にある燈火のよう。この光は下方からは見えない。しかし、その光故に天も地も明るい。この燈火はガラスの中に入っている。これゆえこれを持つ事も出来る。そのガラスは輝く星のよう。そして、これは祝福されたオリーブの木に灯されている。この木は東方の産とも、西方の産とも言えない。このオリーブの油は、火がほとんど触れないのに光を放つ。このようにして光の上に光を添える。多くの者は光があるのはわかっても、それがどこにあるのか分からない。アッラーはお好みの者を、その光が見えるところまで導かれる。そして、その道しるべとして比喩を示される。あなた自身に《ここに来い》と、数々の比喩を示されるのだ。しかし、多くの者たちは比喩を比喩とわからない。これゆえ、迷う者となる。アッラーはこれらすべてを御存じなのだ。
 
36.この道しるべこそ、アッラーに許されて建てられた信仰の家なのだ。つまり、ユダヤ教の信仰の家、キリスト教の信仰の家、仏教の信仰の家、イスラム教の信仰の家、その他アッラーに許されて建てられた信仰の家は、全てこの道しるべであり、それらの示す通りに行えば、この燈火を見る事ができるのだ。これがアッラーの御意志であるから、その通りに行う者たちは皆、アッラーの御名を唱える者と呼ばれ、朝夕、そこで彼を讃えて唱念しているとアッラーが御認めになられるのだ。
 
37.だから、人々よ。他の教えの語る事を自分の都合に合わせて混ぜてはならない。また、現世利益のみを追い求めてもならない。このようなものに心を奪われれば、心も目も転倒してしまうからである。あなた方はこの転倒を恐れるべきなのだ。だから、定められた通り、アッラーを念じ、礼拝の勤めを守り、定めの喜捨を行いなさい。
 
38.アッラーは彼らの行った最善のものに報われ、かつ恩恵により報奨を付け加えられる。アッラーは御心に叶う者に、際限なく与えられる。
 
39.自己都合により禁じられたものを混ぜ合わせる者、信仰を名目にして現世利益を追い求める者、このような者たちは信仰のない者たちとされる。彼らは、そのすることなすこと、すべてが砂漠の中の蜃気楼の如きものとなる。渇ききった者たちには、それは水と見える。しかし、そこにやってきても何も見いだせない。彼らは、アッラーの御前で、他の者の語る事に聞き従い右往左往しているのだ。アッラーはこのような者たちを信仰のない者と見定められ、彼らはその勘定を支払わなくてはならなくなる。アッラーは清算に迅速であられる。
 
40.また、彼らは深海の暗黒にいる者のようだ。上に上がったとしても高い波があり、そこから上を眺めても、暗黒の雲が彼らを覆っている。暗黒の上に暗黒が重なっている。もし、その上からアッラーが手を伸べられ光を与えられても、彼らはその光をほとんど見る事すら出来ない。彼らは、光よりも暗黒を自ら選んでいるのだ。これゆえ、このような者にはアッラーは光を与えられない。アッラーが光を与えられない者には、光はない。
 
41.自ら自由意志を持つ事を許されていないもの、光の中にあることしか出来ない天地の間にあるすべてのものはアッラーを讃える。羽を広げて飛ぶ鳥もそうである。皆、それぞれ礼拝と唱念を心得ており、アッラーも彼らの行っている事を御存じであられる。
 
42.アッラーは天と地の大権をお持ちであり、すべてのものの帰り所はアッラーの御許にある。
 
43.アッラーは雲を駆り立てられ、その間より慈雨を降らせられる。また、火を含む雹を山となされ天から下され、それで人々を打たれる。稲妻のひらめきは人々の視力を奪い、雷鳴は人々の張力を奪う。
 
44.また、アッラーは昼と夜を次々と交替させられる。これらの比喩は見る事の出来る者の教訓となろう。
 
45.また、アッラーはありとあらゆる生き物を水(思考)から創られた。だから、あなた方のある者は腹で這い、ある者は二本足で歩き、またある者は四本足で歩く。人よ、あなた方は本当に人なのか。腹で這う腹黒い蛇ではないのか。四本足で歩く野の獣ではないのか。そうならば、自分たちの先祖にアーダムがいるなどと語るな。アッラーはあなたを蛇や獣として創造されたのだから。アッラーはこのように、ヘビからも豚や犬、また野の獣からも人をお起こしになられる。アッラーは万能であられる。
 
46.アッラーは明瞭な印を以て《人》を導かれる。マムシの末よ、豚や犬どもよ、野の獣の末よ、あなた方は《人》ではない故に、その印が分からないのだ。
 
47.彼らも口先では、「アッラーを信じ服従する。」と語る。しかし、すぐに背き去る。彼らは元々信じる者ではないからである。
 
48.彼らは裁きの席を恐れる。アッラーと使徒の前に呼び出されると逃げ回るのだ。
 
49.他の人々の前では、さも立派そうに振る舞い、権威ある者のように語っている。彼らが真にその通りの者であるならば、率直にアッラーや使徒の許にやってくるのが当然であるはずなのに。
 
50.彼らの心が病んでいるのか、それとも疑いを抱いているのか。それとも、アッラーが彼らを不当に扱うとでも思っているのか。いや、彼らこそ不義者であり、ヘビや犬、豚などの忌むべき獣の末なのだ。
 
51.本当の信者は、裁きのため、アッラーと使徒に呼び出されれば、「畏まりました。従います。」と語る。また、たとえ「火獄に落ちて行け。」と命じられても、「畏まりました。従います。」と語る。このような者たちこそ栄える者である。しかし、不義者たちは「火獄に落ちて行け。」などと命じられれば、アッラーよりも火獄を恐れ逃げ回る。これゆえ、彼らを蛇の末、豚や犬の末、野の獣の末と呼ぶのだ。
 
52.アッラーに服従する者、アッラーに対しイブラーヒームの如き純粋な信仰で応える者は、アッラーを畏れる故に、そこが火獄であったとしても決して拒否したりしない。これゆえ、彼らは最後の目的をも成就する。
 
53.偽信者は、厳粛にアッラーにこのように誓う。「もし、アッラーが命じられるならば、わたしはどこにでも参ります。」と。しかし、実際に命じられると逃げ回る。だから、彼らにはこのように語るがよい。「誓うな。ただイブラーヒームの如き純粋な信仰を持て。アッラーは、あなた方が何を行うのか最初から御存じなのだ。」
 
54.使徒に課せられているのは、ただ明瞭に伝える事だけである。アッラーの語られる事を明瞭にあなた方に伝える事こそ使徒の使命であり、あなた方はアッラーの声を直接聞く事ができないから使徒に従えと語るのだ。もし使徒が間違えて伝えるならば、それは使徒の責であり、あなた方にその責は及ばない。しかし、使徒が伝える事を守らずに、正しく導かれなければ、それはあなた方の責であり、あなた方はその責めを負う事となる。
 
55.アッラーは、あなた方のうち、イブラーヒームの如き純粋な信仰を持ち、善い行いに勤める者には、あなた方以前の者に継がせられたように、この大地を継がせられる。そして、彼らのためにアッラーは教えを選ばれ、それを彼らの宗教となされる。これゆえ、彼らは恐怖を安心無事に変える。彼らはアッラーに仕え、他の何ものをもアッラーに配しない。
 
56.だから、あなた方は使徒に従い、礼拝の勤めを守り、定めの喜捨をしなさい。そうすれば、あなた方は慈悲に与るであろう。
 
57.信仰者のふりをする不信仰者よ、マムシの末、豚や犬どもよ、野の獣の末よ。あなた方が地上で勢力を張ったとしても決して成功しない。あなた方の終の住まいは業火である。何と悪い末路である事か。
 
58.アッラーは全知にして英明であられる。一つの決まりを示される場合でも、常にあなた方のためにと、その印を解き明かされる。たとえば、ある者が裕福であり、たくさんの召使や子女に囲まれており、その彼がイブラーヒームの如き純粋な信仰を持っていたとしよう。召使や子女は彼を畏れ、呼ばれるまでは彼に近づかないかも知れない。しかし、アッラーはこう仰せになられる。『あなた方が右手に所有する者と、あなた方の女子たちの内未成年の者でも、次の3つの場合はあなた方の許可を求めさせなさい。早朝の礼拝の前、昼中の脱衣している時、それから夜の礼拝の後である。これはあなた方のための3度の素肌の時である。これらの外は、互いに行き来してもあなた方にも彼らにも罪ではない。』もし、これらの時以外に召使や子女が彼の居間に入ったとしても、彼はこれを咎める事は出来なくなる。アッラーが罪でないと明言しておられる事を罪と定める事は、アッラーに違反する行為だからである。
 
59.人は自分の子については大目に見るものである。しかし、アッラーはこのように仰せになられる。『あなた方の子どもたちが成年に達するならば、彼らには許しを求めさせなさい。』これは、彼らにとって善い事である。アッラーはこのようにあなた方のために、その印を解き明かされる。アッラーは全知にして英明であられる。
 
60.人は、自らの欲望を叶えようと、自らの体やきらびやかな装飾をこれ見よがしに示すものである。上着をこの見よがしに脱ぎ、挑発する者もいよう。アッラーは仰せになられる。『このように挑発する行為も、この挑発に負ける事も慎むべきである。ただし、結婚を望めない産時期を過ぎた女性が、このような行為をしたとしても、これは許される。だが、彼女らにとって控えめにする方が良い。』アッラーは全聴にして全知であられる。
 
61.また、アッラーは仰せになられる。『体の不具合のある者が、このような行為を行ったとしてもそれは罪とはならない。』すなわち、盲人、足の障害者、病人などがこのような行為を行ったとしても、それは罪と数えられる事はない。また、あなた方自身の行動について、何か余分な制約があるわけではない。たとえば食事についても、自分の家で食べても、父方の家で食べても、母方の家で食べても、兄弟の家、姉妹の家で食べても、父方のおじやおばの家で食べても、母方のおじやおばの家で食べても、また、あなたが鍵を持っている家で食べても、友人の家で食べても良い。また、あなた方は一緒に食べても、別々に食べても咎めはない。ただ、家に入る時はアッラーから祝福される良い挨拶の言葉で、人々に挨拶しなさい。このように、アッラーはあなた方のために印を解き明かされる。あなた方はそれを知るべきである。
 
62.人は、自分の意に沿わない席からは立ち去ろうとするものである。アッラーや使徒が語られる事についても、自分の意に沿わなければ何かと理由をつけて、そこから離れようとする。《アッラーを信じる》とは、自分の意よりもアッラーを重んじる事である。自分の意よりもアッラーを重んじる故に、たとえそれが理不尽な事と思えたとしても、アッラーや使徒に命じられるまでは、そこから離れる事は出来ないのだ。あなたの周りに、もし、何かにつけてあなたの許しを請う者がいたならば、このような者こそアッラーを信じる者である。あなたはあなたが良いと思う事ならば、彼らに許しを与えなさい。ただし、もし、それが罪であれば、あなた自身がその罪と罪である事を許した罪をも背負う事となる。だから、あなたはアッラーの御赦しを請わなくてはならない。アッラーは、あなたの心根故に寛容に慈悲深く御赦しになられるであろう。
 
63.使徒はアッラーの御言葉を伝えると言う一つの責を負っている。だから、使徒の言葉を、あなた方相互間の話のように考えてはならない。アッラーはあなた方の内、誰が離れるのか、誰が密に策略を巡らせるかも御存じである。ムハンマドは最後の使徒である。にも拘わらず、アッラーの声を聞く事ができないのに、使徒と自称し、預言者と自称する者たちが現れる。このような者たちには試練が下り、痛ましい懲罰が科せられる。だから、用心しなさい。
 
64.聞きなさい。天と地のすべてはアッラーの有である。アッラーはあなた方が何ものなのか、そのあるがままの姿を知っておられる。あなた方はアッラーの御許に帰る時、あなたが行った事について告げ知らされる事となる。アッラーは最初から御存じなのだ。
 
 
 
 
 
 
== 脚注・出典 ==