「シャンパーニュの大市」の版間の差分

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== 概要 ==
シャンパーニュは、[[マース川|マース]]・[[モーゼル川|モーゼル]]・[[セーヌ川|セーヌ]]の河川に囲まれ、輸送手段として船が多用された当時の[[ヨーロッパ|欧州]]において、東西南北に通ずる絶好の地理条件を持っていた。ローマの詩人である[[:en:sidonius apollinarisApollinaris|シドニアス・アポリナリス]]が5世紀にシャンパーニュと[[:en:Brie (region)|ブリ]]の市について記している<ref>ウォルフォード 『市の社会史』 p244</ref>。
 
シャンパーニュの大市は、ぶどうを産しない地方の商人がワインを入手するための季節市場が起源とされる。やがて低地地方からの毛織物や毛皮の取引が増え、それを求めて東方の商品を持ち込むイタリア商人をはじめ、ヨーロッパ各地の商人が集まる場となった。この地域を統治した[[シャンパーニュ伯]]は、対外戦争よりも市場を保護した方が利益になると考えた。シャンパーニュ伯は、11世紀末から12世紀前半にかけて、大市の開催サイクルを整えた。領内の6ヵ所の年市の開催時期を調整し、年間を通して年市が開催されるようにしたのである。同様の年市サイクルは、フランドル伯領や、ブルゴーニュ公領でも見られた<ref>大宅「フランス中世の地方都市と市場」</ref>。シャンパーニュ伯は市場の自主性を保証して[[1154年]]にラニーの市税を免除するなど、商人の保護に尽力することと引き換えに、領内の経済を活性化して富を得ることになった。