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== 生涯 ==
[[承久]]3年([[1221年]])に勃発した[[承久の乱]]の際、大祝として義時の戦勝を祈願すると
得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、[[宝治]]元年([[1247年]])、[[宝治合戦]]直前には、すわ合戦かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている<ref>『吾妻鏡』1247年6月4日の記述</ref>。北条一門や[[安達氏]]といった外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(のちの[[寄合衆]])のみの協議である「深秘の御沙汰」にもしばしば参加した。
盛重の幕府に対する貢献は高かった。[[寛喜]]2年([[1230年]])、鎌倉中で騒動が起こった際には[[尾藤景綱]]と共にこれを鎮定し、同年の[[和賀江島]]が完成した際にも景綱と共に巡検を担当。[[文暦]]2年/[[嘉禎]]元年([[1235年]])、[[源頼朝]]の霊廟がある法華堂近くの湯屋からの火災の際には、湯屋と法華堂の間にある家屋を迅速に取り壊して消火活動を行い、法華堂への類焼を食い止めた<ref>日本史リブレット21 武家の古都、鎌倉(ISBN 4-634-54210-2) 17ページ</ref>。[[寛元]]4年([[1246年]])閏4月の[[宮騒動]]では[[北条光時]]らの謀議を事前に阻止したことにも寄与し、宝治合戦でも得宗被官の統率役として抜群の勲功を挙げ、時頼から「無双の勲功」と称えられたという。[[建長]]3年([[1251年]])、幕府への謀叛を画策した[[了行]]法師、[[長久連]]、[[矢作左衛門尉]]らの尋問を担当し<ref>『吾妻鏡』1251年12月26日の記述</ref>、[[文応]]2年/[[弘長]]元年([[1261年]])には宝治合戦で滅んだ三浦氏の残党である[[三浦義村]]の子[[
宝治2年([[1248年]])、[[北条時輔]]が誕生すると、その乳母夫とな
上記以外の事績としては、建長3年(1251年)に風伯祭の奉行を勤めたこと、同5年([[1253年]])に泰時追福を祈願して山内に堂を建立したことなどが『吾妻鏡』に記載されている。
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