「神聖ローマ帝国」の版間の差分

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==概要 ==
日本では通俗的に、[[962年]][[ドイツ王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]により、カロリング朝的[[ローマ帝国]]の継承者として[[皇帝]]に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している<ref group="nb">たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。この神聖ローマ帝国という名称はローマ帝国にラテン語やラテン文化を共通解として見出すアジア諸国でよく疑問点として、なぜローマという名称であるのかという点が挙げられるが、これは西ローマ帝国が中世以前に滅んでしまい、ローマを名乗る事がたとえドイツ語圏に属する諸侯であっても欧州文化の主要な後継者となるという根底意識と説明される。この意味でも連邦議会の様々な位置にローマ風文化を散りばめるアメリカ合衆国においても、ローマの後継者を自称するという点は同一ではないかという視点から歴史研究を行う学派もある。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。</ref>。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国を[[カール大帝]]から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期([[800年]]-[[911年]])・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期([[962年]]-[[1254年]])・中世後期から[[1806年]]にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]], pp. 15-49。</ref>。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。ちなみにこの神聖ローマ帝国を第一、普仏戦争後の[[ドイツ帝国]]を第二、自らを第三のドイツ文化及び欧州統合の象徴であるとして、ナチスドイツ時代の[[第三帝国]]という言葉が挙げられる。この言葉において第一帝国とされたのは、20世紀中頃に第三帝国を自称したアドルフ・ヒトラー総統じしの故郷であるハプスブルク家統治のオーストリア地域を基礎とした世界観に基づいており、この世界観は南北アメリカ大陸に存在するゲルマン系白人人口の中でも普遍的に観られる価値観である。[[普澳戦争]]以後にウィーンから「ドイツの都」という象徴を奪った[[ベルリン]]を中心とする現在のドイツとは異なり、オーストリアとドイツの関係は、親子や兄弟など様々な表記によって表されるが、欧米文化、特に欧州貴族文化の典型とされるオーストリア・ウィーン地域とは異なり、現在の狭義のドイツであり、その根本となる北ドイツ・旧[[プロイセン]]地域は、カトリック教会が存在するローマ市に基づく欧州の世界観において辺境とみられる場合があり、ゲルマン文化とラテン文化の接点を考えた際にもドイツ系諸侯の古都[[ウィーン]]とローマ教皇からの推挙に基づくハプスブルク家王朝との関連は深く、政教分離という原則と正反対の欧米帝王学の基礎になるという「神聖」という国名の意味にも言及がなされる事もある。
 
帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた[[選挙王制]]の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代([[ザクセン朝]]、[[ザーリアー朝]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]])では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.48-49</ref><ref name=yshinsei/>。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた([[帝国教会政策]])<ref name=teikokukyoukai/>。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のために[[イタリア]]の支配権を唱え、度々侵攻した([[イタリア政策]])。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々[[教皇庁]]に介入していた。だが、[[グレゴリウス改革|教会改革運動]]が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、[[11世紀]]後半から[[12世紀]]にかけての[[叙任権闘争]]は皇帝側の敗北に終わった<ref name=horikosi174/>。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている<ref name=yshinsei/>。