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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=セ人1063年没__世界史}}
[[Image:Borj-toghrul.jpg|thumb|right|[[テヘラン]]近郊レイにあるトゥグリル・ベク廟(11世紀)]]
'''トゥグリル・ベク'''( طغرل بك '''Tughril Beg'''、 ركن الدين أبو طالب طغرل بيك محمد بن ميكائيل بن سلجوق Rukn al-Dīn Abū Ṭalīb Ṭughril Bayk Muḥammad b. Mīkā'īl b. Saljūq、
[[キルギス]]草原から[[ブハラ]]方面に進出して勢力を拡大した[[テュルク]]系[[遊牧民]]集団の族長である[[セルジューク]](セルチュク)の孫に当たる人物で、セルジュークの息子のひとりミーカーイールの三男であったらしい。兄にチャグリー・ベクがいる。父であるミーカーイールがムスリム化していないテュルク集団への外征中に戦死した後に、チャグリー・ベクと部衆を分け合ってセルジューク集団を率いていたようである。その智勇に優れていたことから祖父と同じく族長となった。この集団は開祖にちなんでセルジューク族を名乗った。
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さらに当時、勢力を拡大して脅威となっていた[[ブワイフ朝]]や[[シーア派]]を倒して[[小アジア]]から[[トルキスタン]]にかけて広大な支配圏を築き上げた。さらに[[東ローマ帝国]]とも交戦し、アッバース朝のカリフの後見人となってイスラム世界の権威を手にするなど、彼の代にセルジューク朝は大いに栄えた。
1063年、
ちなみに彼の名であるトゥグリルは[[鷹]]、ベク(ベイ)は君主を意味するが、「鷹の君主」と称されるにふさわしい統治能力と武勇を兼ね備えた一代の傑物であった。なお、この名は同じ[[テュルク]]系集団の君主である[[ケレイト]]の君主、[[オン・ハン]]の本名であるトグリルと共通しており、テュルク系[[遊牧民]]に好まれた名前であった。
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[[Category:セルジューク朝の君主]]
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[[Category:1063年没]]
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