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その後、1931年(昭和6年)12月に[[三重県知事一覧|三重県知事]]、1933年(昭和8年)6月に[[埼玉県知事一覧|埼玉県知事]]となり、1934年(昭和9年)7月に内務省土木局長、1936年(昭和11年)3月に社会局長官、同年6月に[[内務次官]]、1938年(昭和13年)1月に[[事務次官等の一覧#厚生労働事務次官|厚生次官]]を務めている。なお、これらと並行して[[対満事務局]]および[[企画院]]の[[参与]]も務めた。
 
[[1939年]](昭和14年)1月の[[平沼内閣]]においては[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]<ref>広瀬久忠の厚生大臣就任は、山梨県出身者による初の大臣就任となった。</ref>となり、翌[[1940年]](昭和15年)1月の[[米内内閣]]においては[[内閣法制局長官]]となり同年5716日には[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選されている<ref>『官報』第4058号、昭和15年7月17日。</ref>。また、1941年(昭和16年)12月に[[産業設備営団]]副総裁、1942年(昭和17年)11月には同営団の総裁に就任している。
 
[[太平洋戦争]]末期の[[1944年]](昭和19年)7月の[[小磯内閣]]においては再度の厚生大臣を務め、翌[[1945年]](昭和20年)2月には[[国務大臣]]兼[[内閣書記官長]]に転任し、同年8月に[[地方総監府#地方総監|関東信越地方総監]]兼[[東京都知事一覧|東京都長官]]となったが、[[1946年]](昭和21年)8月に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[公職追放]](1946年(昭和21年)8月 - 1951年(昭和26年)8月)となっている。
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