「岡部芳郎」の版間の差分
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'''岡部 芳郎'''(おかべ よしろう、[[1884年]][[4月9日]] - [[1945年]][[3月17日]])は、[[日本]]の[[映画技師]]。[[トーマス・エジソン]]唯一の日本人助手。
[[1904年]]から[[1914年]]まで在米、[[ニュージャージー州]]のエジソン研究所に在職。1914年に、日本キネトフォンの専任技師として帰国し、
== 経歴 ==
山口県立大島商船学校卒業後、海軍予備少尉に任官。22歳のとき、
[[1909年]]、[[渋沢栄一]]を団長とする第一回渡米実業団を出迎え、集合写真の一枚を撮影したのも岡部と言われる。[[1914年]]に、日本キネトフォンの専任技師として帰国し、エジソンのキネトフォンを使用して、松井須磨子の「カチューシャの唄」の映画版を制作、同年8月1日、浅草日本館において上映する<ref>田中純一郎『日本映画発達史
[[1926年]]前後に[[大倉喜八郎]]の支援を受け、エジソンの訪日を計画・交渉したが、エジソン自身が人造ゴムの研究に没頭していたため、実現しなかった。[[1931年]]11月27日に[[日比谷公会堂]]にて行われたエジソン追悼会の席上、追悼会長であった[[金子堅太郎]]
[[1934年]]、京都府八幡市男山のエジソン記念碑の除幕式に、金子とともにエジソンと最も親しかった日本人として参列した。その後、神戸で鉄工所を営み、北欧の船舶の修理などを引き受け財を成すが、戦時色が強まるにつれて、事業は縮小を余儀なくされる。渡米経験があったため、スパイ嫌疑がかけられ、憲兵隊で取り調べを受けたことが影響したとも言われている<ref>[http://www.oshima-k.ac.jp/news/040101.pdf 中国新聞2004年1月1日「エジソンを支えた日本人「岡部芳郎」は大島商船卒だった」]</ref>。1945年、神戸大空襲によって戦災死する。その際、エジソンから譲り受けた個人的な品や発明品の多くが焼失した。
== エピソード ==
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また、エジソンは彼について、「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない」とコメントしている。
[[1937年]]に「日本の植物学の父」と言われる[[牧野富太郎]]が兵庫県と鳥取県の県境の氷ノ山を学術調査した際に、岡部が撮影した映像が[[2012年]]に発見され、牧野と親交があったことが分かった<ref>「花在ればこそ吾もありー世界的植物学者を支えた神戸人」、SUN TV、2012年12月23日放映、2013年第20回[[坂田記念ジャーナリズム賞]]授賞作品</ref>。
== その他 ==
== 脚注 ==
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<div class="references-small"><references /></div>
== 関連サイト ==
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