「仮名垣魯文」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎戯作文学: 内部リンク追加
10行目:
[[1872年]](明治5年)に[[教部省]]から「[[三条の教憲]]」が出され、愛国や実学志向を小説で表現するようにと命じられると、[[条野採菊]]と共に「[[著作道書き上げ]]」と称する文書を提出した。1874年に『[[横浜毎日新聞]]』の雑報記者となり、翌年[[横浜]]で自ら『仮名読新聞』を創刊。その後書肆磯部屋などを資本主として東京に移した。芸妓の内幕についての記事「猫々奇聞」が喜ばれ、新聞で劇評を載せたことの嚆矢でもあった。平仮名中心の紙面は、後の口語体新聞の先駆けとなった。次いで『いろは新聞』社長。1884年『[[都新聞|今日新聞]]』創刊し主筆となる。
 
晩年は玩物居士と号して古仏像や仏具を蒐集して、骨董にも鑑識眼を持ち、またしばしば書画会を催して収入を得た。戯作者など47人で「いろは連」を組織。劇通で[[河竹黙阿弥]]にも親しく、『歌舞伎新報』でも記事を執筆した。酒は少しで、甘い物も食べず、鰻、天麩羅、[[ももんじ屋]]の[[猪肉]]が好物。芸妓を「猫」、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川団十郎]]を「団洲」、新史劇を「活歴」と呼ぶ名付け親でもある。
 
1894年没、戒名は'''仏骨庵独魯草文居士'''、[[谷中 (足立区)|谷中]]の永久寺に葬られた。門人に、二世花笠文京(渡辺義方)、採霞園柳香(広岡豊大郎)、胡蝶園わかな(若菜貞爾)、蘭省亭花時(三浦義方)、二世一筆庵可候(富田一郎)、野崎左文、[[斎藤緑雨]]がいて、当時の新聞小説家は大きくこの仮名垣派と、[[高畠藍泉|柳亭種彦]]の門流の柳亭派に二分されていた。野崎左文の書いた伝記「仮名反故」(『列伝体小説史』所収)がある。