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'''百人町'''(ひゃくにんちょう)は[[東京都]][[新宿区]]の[[町丁|町名]]<ref
== 地理 ==
[[江戸時代]]から[[ツツジ]]の名所として知られたが、[[1903年]]6月に[[日比谷公園]]が開設されるとツツジの多くはそちらへ転売され、それ以後は[[宅地]]化が進んだ<ref>徳永康元『ブダペスト回想』所収「大久保の七十年」</ref>。[[戦前]]は静かな[[住宅地]]で<ref>[[川本三郎]]「郊外の文学誌」p.48</ref>、[[夏目漱石]]の『[[三四郎]]』では[[寺田寅彦]]をモデルとする野々宮宗八の住む場所に設定され、郊外の寂しい住宅地として描かれている。[[小学校]]の時分から百人町近辺に育った洋画家の[[曽宮一念]]は、「その頃の大久保は武蔵野の入口であったと同時に江戸時代からの静かな隠栖の地、又遊山の地でもあったらしい」と述べている<ref>曽宮一念「[[明治|明治時代]]の大久保」(「文学散歩」1961年10月号)</ref>。林芙美子の『稲妻』(1936年)に「山の手の大久保」との表現が登場することから、この近辺は[[大正]]から[[昭和]]にかけて「郊外」から「山の手」になったと川本三郎は考えている<ref name="kawa66" />。
作家の[[岡本綺堂]]、[[大町桂月]]、[[岩野泡鳴]]、[[蒲原有明]]、[[国木田独歩]]、[[若山牧水]]、[[葛西善蔵]]、[[内田魯庵]]、[[林芙美子]]、[[下村湖人]]、[[小栗風葉]]、[[邦枝完二]]、[[岸田國士]]、詩人[[西條八十]]、[[服部嘉香]]、[[水野葉舟]]、歌人[[金子薫園]]、英文学者[[戸川秋骨]]、中国文学者[[奥野信太郎]]、ジャーナリスト[[幸徳秋水]]、思想家[[北一輝]]が住んでいた他<ref>茅原健「新宿・大久保文士村点描」(「日本古書通信」2001年8月号、9月号)</ref><ref>木村梢「東京山の手昔がたり」(世界文化社、1996年)</ref><ref>[http://park18.wakwak.com/~hibi/html/bunpuzu.htm『文章世界』第5巻第6号 増刊 菖蒲号 明治43年5月1日 「中央文壇に於ける文士分布図」]</ref>、3丁目には化学者で元学士院長の[[柴田雄次]]や[[経済学者]]の[[大内兵衛]]などの邸宅もあった<ref name="eto">「新編江藤淳文学集成」第5巻、p.370。</ref>。文芸評論家の[[江藤淳]]や作曲家の[[柴田南雄]]、[[ハンガリー]][[文学者]]の[[徳永康元]]も百人町出身である<ref name="eto" /><ref>柴田南雄「わが音楽わが人生」</ref><ref>徳永康元「ブダペスト日記」</ref>。「外人村」と呼ばれる一画には、初期の日本楽壇に貢献した外国人音楽家たちが住んでいた<ref name="kawa66">[[川本三郎]]「郊外の文学誌」p.66</ref>。
[[戦後]]は「[[音楽]]の町」「[[楽器]]の町」として知られていたが、やがて連れ込み宿の立ち並ぶ盛り場となり、この街に生まれ育った江藤淳は[[1965年]]に百人町を訪れてショックを受けている<ref>江藤淳「戦後と私」</ref>。現在は新宿区内で最も[[外国人]]居住者の多い場所であり、[[韓国人]]向けの店舗が多い[[職安通り]]がある百人町は、[[大久保 (新宿区)|大久保]]と合わせて[[関東地方|関東]]最大の[[コリア・タウン]]といわれている。周辺に[[大韓民国|韓国]]や[[中華人民共和国|中国]]をはじめ[[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]等の[[アジア]]諸国の料理店・雑貨店といったエスニックの要素が顕著であることで有名な街であるが地理的に[[新宿]]の[[繁華街]]から連続しており、各種オフィスも多い。他に一般住居や各種[[専修学校|専門学校]]が多く集まる、あるいは[[歌舞伎町]]に近い地区には[[ラブホテル]]街が立ち並んだりといった色々な顔を持つ街でもある。一丁目に[[新大久保駅]]、[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]がある。[[歌舞伎町]]を挟んで、他に、駅周辺は住居に[[ラブホテル]]・[[専門学校]]などが混在している。駅周辺以外は住宅街であり、山手線沿いの[[東京グローブ座]]を有する西戸山タワーホームズ(百人町3-1,1988年3月竣工)に代表される[[超高層マンション|高層マンション]]や、建て替えの済んだ都営[[住宅]]が建つ。
なお、この百人町のほかに旧大久保町としての区域には[[新宿]]六丁目・新宿七丁目や歌舞伎町二丁目も含み、[[牛込]]地区の[[余丁町]]も江戸時代は大久保村であった。
== 歴史 ==
コリア・タウンとなる前は、
現在の百人町3・4丁目と大久保3丁目には敗戦まで陸軍の施設や、隣接した現在集合住宅団地のある[[戸山 (新宿区)]]には陸軍の演習場の戸山が原があった。後の「[[建設省]][[建築研究所]]となる場所には陸軍技術研究所があり、防災研究所を経て、戦後の[[戦災復興院]]戦災復興技術研究所から建築研究所となった。また、[[東京文理科大学]]の物理教室大久保分室が設立され、後に[[東京教育大学]]光学研究所や[[資源科学研究所]]、東京都立衛生研究所などが開設され、国の研究機関は[[筑波研究学園都市]]に移転するまで同地にあった。国の研究機関の跡は社会保険中央総合病院(現:[[地域医療機能推進機構東京山手メディカルセンター]])や[[国立科学博物館]]の新宿分館となっている。
終戦後の1945年から1946年にかけて、[[住宅営団]]によって百人町越冬住宅が450戸建設されていたほか、戸山が原には集合住宅[[団地]]が建設され、一帯は住宅地と化した。[[日雇い]][[労働者]]や[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]などは空き地や[[山手線]]、[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]のガード下を不法占拠して住みつくようになり、現在の大久保界隈の元になる[[バラック]]街が形成された。
[[1950年]]に[[ロッテ]]新宿工場が操業を開始すると、[[雇用]]を期待した本国の朝鮮人や[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]などが更に集まった。
1950年代には[[済州島四・三事件]]や[[朝鮮戦争]]の影響で[[朝鮮半島]]から逃れてきた[[朝鮮民族|朝鮮人]]が流入。現在のようなコリア・タウンが成立した。
その後[[簡易宿所]]も増え、1960年代には一時[[東京]]では[[山谷 (東京都)|山谷]]と並ぶ[[寄せ場]]となっていた。
[[1970年代]]頃からエスニック料理店や[[大韓民国|韓国]]・
[[マスメディア]]等では[[観光名所]]を紹介する視点から[[東京都道302号新宿両国線|職安通り]]や
[[1946年]]に[[都市計画]]決定された[[都市計画道路補助72号線]]の建設が現在も行われているが職安通りから大久保通りまでの区間、つまり山手線・[[西武新宿線]]の東側に隣接する百人町一丁目地区のみが未整備である。[[戦後]]の不法占拠等の影響により[[土地]]の権利関係が複雑化しており、また新大久保駅付近には計画に反対し土地買収に応じない地権者がいるため予定地の[[土地区画整理
[[1972年]]に百人町三丁目・四丁目地区が東京都から[[広域避難場所]]指定を受けたことから[[1984年]]、新宿区は「百人町三丁目・四丁目地区整備計画」の構想を発表し[[1990年]]に計画決定。防災上の観点から木造住宅の建て替え・建築研究所跡地の防災公園化(新宿区立百人町ふれあい公園)・狭隘な路地を解消し新たに街路やポケットパークを整備する等の都市防災不燃化促進事業が行われた。現在ほぼ完成しているほか、[[地区計画]]も新たに定められた。
=== 地名の由来 ===
百人町の地名は、[[内藤清成]]が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことに由来する。[[鉄砲百人組頭|百人組]]と呼ばれた江戸の街の警護を担当する鉄砲隊は、その鉄砲術が江戸でも1、2を争うほどの腕前であったという。
かつては同じ由来を持つ青山百人町([[青山 (東京都港区)|青山]])、根来百人町([[市ヶ谷]])も存在したが町名の統廃合で姿を消し当地に大久保百人町に相当する地名が残るのみである。
=== 沿革 ===
*[[1889年]][[5月1日]] - [[市制]]・[[町村制]]施行により、[[南豊島郡]]大久保百人町・東大久保村・西大久保村が合併し[[大久保町 (東京府)|大久保村]]が発足。
*[[1895年]][[5月5日]] - [[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]開業。
*[[1896年]][[4月1日]] - [[豊多摩郡]]に変更。
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*フレイザープレイス・ホフ新宿
*:[[シンガポール]]に本社を持つ[http://www.frasershospitality.com/ Frasers Hospitality社]によって経営されているサービスアパートメント(ホテル並のサービスが付いた家具付き高級アパート)。
*:かつては
*[[東京グローブ座]]
*[[黒澤楽器店]]本社
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== 外部リンク ==
*[http://www.city.shinjuku.lg.jp/
{{Geographic Location
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