「アメリカ合衆国の独立」の版間の差分

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少数民族は戦争の間中立に留まろうとしたが、その数は明らかでない。多くは目立たないことに徹した。しかし、特にペンシルベニアの[[クエーカー]]教徒は積極的に中立を宣言した重要な集団であった。革命勢力が独立を宣言した後で、イギリスとの取引を続けていたクエーカーは、イギリス支配を支持する者、革命勢力を批判する「扇動文書の考案者や著者」として革命勢力から攻撃を受けた。
 
戦後、王党派の大多数はアメリカに残り以前の暮らしに戻った。サミュエル・シーベリーのような人物は傑出したアメリカの指導者になった。10万人から25万人と見られる王党派がカナダ、イギリスあるいは[[西インド諸島]]に移住し、歴史上でも大きな移住の一つとなった。これはアメリカ植民地人口の5%程度となった。1783年に南部の王党派が西インド諸島に移住するとき、約75,000名の奴隷も伴って行った<ref> Greene & Pole (1994) ch 20-22</ref>。西インド諸島ではアメリカより26年早く奴隷が放された。
 
=== 愛国者の中の階級による違い ===
20世紀初期のJ・フランクリン・ジェイムソンのような歴史家達は、愛国者側に付いた者の階級構成を調べ、独立革命の中で階級闘争があったという証拠を探した。しかし20世紀の後半では、歴史家の多くがそのような解釈を放棄して、その替わりに高い水準の理論的一体性を強調した。富裕な王党派が居れば貧乏な王党派もいたのと同じく、愛国者も様々な資産と背景の階層が混在するものであり、富裕で教育がある者は軍隊でも士官になる可能性が高かった。理論的な意見の一致がいつも優先された。愛国者はイギリスからの圧政や不当な税金からの放、そして何よりもその固有の権利であると考えられることの確保のための手段として、独立を見なしていた。ほとんどの自作農、技能職人、商店主は愛国者側に付き、政治的な平等を求めた。これらの人々は特にペンシルベニアでは成功したが、[[ニューイングランド]]ではそうでもなかった。ニューイングランドではジョン・アダムズが[[トマス・ペイン]]の「[[コモン・センス]]」を「愚かな民主主義の発想」を提案していると言って攻撃していた<ref> Nash (2005); Resch (2006)</ref>。
 
=== 女性 ===
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