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Kinori (会話 | 投稿記録)
白河義実夫人説に加筆・出典。政岡まつり。
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=== 白河義実の妻 ===
これと別に、家臣の[[白河氏]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}の周辺では、政岡は白河家の人だと伝えられていた。研究者として初めてこれをとりあげたのは金徳淳で、様々な状況証拠から[[白河義実]]の妻が政岡にあたるとする説を唱えた。作中の名の政岡は、白河家の所領である真坂に似せて作ったもの。『実録先代萩』は松千代の父を白河頼母(たのも)と語り、白河主膳(とのも)を名乗った白河義実と似る。子の幼名が松千代で劇中の千松と似る。藩主と血縁関係がない白河氏が、事件後に一門という[[仙台藩の家格]]の中で最高の家格に取り立てられた<ref>金徳淳『烈婦政岡』82-84頁。</ref>。創作中で言及される水差しにあたるものとして、白河家には綱村から拝領した水差しが伝わる。事件後、三沢家など関係者の家と白河家の間に複数の縁組ができた<ref>金徳淳『烈婦政岡』84-85頁。</ref>。ただし、この人が綱村の乳母なり養育係なりになったことを示す史料はない。また、松千代は長じて白河氏を継ぎ、77歳の長寿をまっとうした。
 
金徳淳は仙台市史編纂課の嘱託として仙台市に勤めていたが、仙台の観光に不利になる説を唱えたせいで解雇されてしまった。白河家の地元[[一迫町]](現在は合併して[[栗原市]]の一部)は金の説を歓迎し、真山にあった白河義実夫人の墓を地元の[[龍雲寺 (栗原市)|龍雲寺]]に改葬し、霊廟を建てた<ref>金徳淳『烈婦政岡』に寄せた一迫町長菅原義雄の「序」による。</ref>。真坂で昭和の初めに作られた『真坂小唄』は、「まこと政岡育ての親よ 三沢初子は生みの親」と唄って対抗した<ref>勝又胞吉『遺跡を巡りて』156頁。</ref>。地元では[[1928年]](昭和3年)から毎年4月に「政岡まつり」を行い、2014年(平成26年)で第60回になった<ref>[http://kurihara-kb.net/index.php 栗原市観光物産協会]「[http://kurihara-kb.net/event/detail.php?id=68&param=event 第60回政岡まつり]」、2014年6月26日閲覧。</ref>。