「鎌倉三代記」の版間の差分

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初代鴈治郎の三浦之助については、次のような話がある。[[昭和]]8年([[1933年]])12月京都[[南座]][[顔見世]]のこと、初代鴈治郎は病で体力が弱っていたが三浦之助で出ると決まった。その扮装の鎧が重いだろうと周囲が止めたが、「アホか!鴈治郎とあろう者が軽い鎧着て出られると思てんのか!」と一喝していつもの鎧を着た。だが、二日目になると「軽いのにしてくれ」と言いだし、三日目には休場、そのまま舞台に立つことなく没した。ファンは「さすが成駒屋はんや。最後まで緋おどしの鎧着てはったな」と名優を偲んだという。
 
百姓籐三郎じつは佐々木高綱は、前半の軽妙洒脱な道化役めいた所と後半の豪華で貫禄充分な英雄との対比が必要で、正体見あらわしの際に舌を出して両手を下げる「幽霊見得」や、ぶっかえりで濃紺の古銭模様の衣装(真田の六文銭にちなむ)へ引き抜くところなど仕どころのある役である。数多くの名優により演じられ、[[明治]]期の[[中村芝翫 (4代目)|四代目中村芝翫]]や戦前戦後期の[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、最近では[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]、[[中村富十郎 (5代目)|五代目中村富十郎]]などが名高いが、特に[[実川延若 (2代目)|二代目実川延若]]のは古怪さとコクのある演技が見事に混ざり合ったハイレベルの高綱であった。なお芝翫の型では井戸からの出には藤三郎の衣装に仁王襷をかけ、ぶっかえりは行わないが、[[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]によればこの高綱のぶっかえりは明治以降行なわれるようになったもので、それまでは芝翫型が標準の扮装だったという。物価得ぶっかえる場所は、普通「地獄の上の一足飛び」の義太夫台詞で「幽霊見得」とともに行うが、初代吉右衛門は「何しおう坂本の総大将と類なき」の件で行った。
 
幕切れ近くに長門が死ぬ件りはやはり通常省略される。おくるが自害する場面があるが、これは原作の浄瑠璃には無いものである。そして幕切れは、負傷して一旦失神した三浦之助を高綱が弓で打って正気に戻した後、左に三浦之助が弓で身体を支えて立ち、右に時姫が三浦之助に寄ろうとするのを真ん中に立った高綱が左手に持った槍で押さえ、右手で軍扇をかざすという絵面の[[見得]]で幕となる。古くは三浦之助が舞台から花道を経て一散に退場し、残る二人が見送るという型をとっていて、昭和四年六月[[歌舞伎座]]で、十五代目羽左衛門が演じた記録がある。