メインメニューを開く

差分

編集の要約なし
 
その後に行われた[[長野県|長野]]や[[富山県|富山]]や[[金沢市|金沢]]や広島、[[横浜市|横浜]]や東京の[[歌舞伎座]]・[[東京座]]などでの公演も成功を収め、4年間で上演回数は440回を越えたが、この背景には、当時世界中で注目を集めていた[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の思想を目にしようという目的の学生<ref>『「はやり歌」の考古学』146頁。</ref>や、新しく変わった大正時代を肌で感じようとした大衆の心理があった<ref>『日本レコード文化史』95頁。</ref>。
 
帝国劇場の公演から流行歌が生まれた前例としては、[[1913年]](大正2年)10月に始まった[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の『夜の宿』公演があるが、「カチューシャの唄」ほど大規模に流行したケースは前例がなかった<ref>『流行歌の誕生』34頁。</ref>。
 
=== レコードによる影響 ===
{{Infobox Single <!-- プロジェクト:楽曲 をご覧ください -->
この盛況の様子を見た[[オリエント・レコード]]は、松井の歌と劇の一部を吹き込んでレコードにした。[[蓄音機]]自体が高価で普及率が低く、数千枚売れれば大当たりと言われた当時でも2万枚以上を売り上げたという説もある。なお、「[[大阪毎日新聞]]」が1915年3月13日付で報じたところでは、発売後10か月間の売れ行きは2000枚であったという。
| Name = 復活唱歌(カチューシャの唄)
| Artist = [[松井須磨子]]
| Album =
| A-side =
| B-side = 復活セリフ
| Released = [[1915年]][[5月]]上旬{{Refnest|group="注釈"|1915年5月8日付の『日出新聞』と同月11日付の『大阪朝日新聞』にレコードの広告が掲載されている<ref>『流行歌の誕生』49頁。</ref>。}}
| Format = シングルレコード(SP盤)
| Recorded = 1915年[[4月23日]]〜[[4月25日|25日]]の間{{Refnest|group="注釈"|1915年4月23日に松井が京都入りし、レコード吹き込みに言及した[[中村吉蔵]]宛の抱月書簡の日付が同月25日であることから、この間に吹き込まれたと考えられている<ref>『流行歌の誕生』48頁。</ref>。}}<br />京都・[[東洋蓄音器]]録音スタジオ
| Genre = [[ショー・チューン]]
| Length =
| Label = [[オリエント・レコード]]
| Writer = 作詞:[[島村抱月]]、[[相馬御風]]<br />作曲:[[中山晋平]]
| Producer =
| Chart position =
| Certification =
| Last single =
| This single =
| Next single =
}}
この盛況の様子を見た[[東洋蓄音器]]([[オリエント・レコード]]は、松井の歌と劇の一部を吹き込んでレコードにした。[[蓄音機]]自体が高価で普及率が低く、数千枚売れれば大当たりと言われた当時でも2万枚以上を売り上げたという説もある。なお、「[[大阪毎日新聞]]」が1915年3月13日付で報じたところでは、発売後10か月間の売れ行きは2000枚であったという。ただし、この記事はレコードの吹き込み料金に関するものである。前後の文脈から判断して「枚」は「円」の[[誤植]]だとすると、松井の吹き込み料が2000円という意味とも考えられる<ref>『流行歌の誕生』50-51頁。</ref>
 
当時は吹き込みによって契約料が支払われる制度がなかったため、松井は報酬として自分の歌ったレコードをもらったのみであったが、芸術座は完成したレコードをさらなるヒットに生かした。島村は各公演先で初日の前に文学講演会を行い、自らの演劇論を主張する一方でレコードを流し、観客の心を掴んだ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{reflist|group = "注釈"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
36,339

回編集