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==== 保科から松平への改姓 ====
正之の没後、藩主の座は子の[[保科正経|正経]]、そしてその弟の[[松平正容|正容]]が継いだ<ref name="会津藩56">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P56</ref>。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった<ref name="会津藩56"/>。家格は[[親藩]]・[[御家門]]で、家紋は[[会津葵]]を用いた。旗印は漢字1文字で「會」である。
 
==== 財政危機 ====
第4代藩主の[[松平容貞|容貞]]の時代である[[寛延]]2年([[1749年]])に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する<ref name="会津藩87">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P87</ref>。藩は鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などを行っている<ref name="会津藩88">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P88</ref>。[[宝暦]]年間における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり<ref name="会津藩88"/>、藩は農政改革や年貢を[[定免法]]に改定するなどして対応するが財政は好転せず、かえって藩の借金を40万両に増やすことになった<ref name="会津藩89">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P89</ref>。[[明和]]4年([[1767年]])には財政再建を任されていた井深主水が俸禄や借金問題から藩を捨てて逃亡するという事件まで起こっており<ref name="会津藩91">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P91</ref>、その後も手形の発行などを繰り返すという自転車操業状態で藩の借金は総額57万両にも及び<ref name="会津藩92">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P92</ref>、会津の藩財政は実質的に破綻しているに近かった。
 
==== 田中玄宰の藩政改革 ====
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