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==概要 ==
日本では通俗的に、[[962年]][[ドイツ王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]により、[[フランク・ローマ皇帝|カロリング朝的[[ローマ帝国]]の継承者として[[皇帝]]に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している<ref group="nb">たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。</ref>。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国を[[カール大帝]]から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期([[800年]]-[[911年]])・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期([[962年]]-[[1254年]])・中世後期から[[1806年]]にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]], pp. 15-49。</ref>。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。
 
帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた[[選挙王制]]の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代([[ザクセン朝]]、[[ザーリアー朝]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]])では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.48-49</ref><ref name=yshinsei/>。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた([[帝国教会政策]])<ref name=teikokukyoukai/>。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のために[[イタリア]]の支配権を唱え、度々侵攻した([[イタリア政策]])。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々[[教皇庁]]に介入していた。だが、[[グレゴリウス改革|教会改革運動]]が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、[[11世紀]]後半から[[12世紀]]にかけての[[叙任権闘争]]は皇帝側の敗北に終わった<ref name=horikosi174/>。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている<ref name=yshinsei/>。
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