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[[231年]]、諸葛亮が祁山に出陣した際、王平は別働隊を率いて山の南を守備した。この時、[[司馬懿]]が諸葛亮の軍を、張&#x90C3;が王平の軍を攻撃したが、王平は堅守して張&#x90C3;軍を撃退している<ref>『[[漢晋春秋]]』によれば、諸葛亮は魏延・[[呉班]]・[[高翔]]を派遣して司馬懿を撃退し、敵の首級を三千・鎧を五千・[[弩]]を三千百獲得した。</ref>。
 
[[234年]]、諸葛亮が[[五丈原]]で魏軍と対陣中に没すると、[[楊儀]]は諸葛亮の遺言に従い全軍撤退を命じた。ところが、かねてから楊儀と不仲であった[[魏延]]が撤退命令に従わず、楊儀討伐の兵を挙げるという事態が起きてしまった。この時、王平は楊儀の先鋒となり、魏延配下の兵士に向かって「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならない内に、お前たちはなぜこのような事をしようとするのか」と一喝した(『蜀書』魏延伝)。魏延の兵士たちがこれを聴くと、魏延を見捨てて逃げ去ったため、楊儀は難なく魏延を討ち取ることに成功した。[[陳寿]]はこの時の戦いを「一戦して(魏延を)破りこれを平らげたのは、王平の功績である」と、称賛している。
 
撤退後は後典軍・安漢将軍に昇進し、[[呉懿]]の副将として漢中に駐屯した。また、漢中[[太守]]を兼任した。[[237年]]に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され、安漢侯に封じられた。その後も、前監軍・鎮北[[大将軍]]に昇進し、漢中の軍事・行政を一任された。