「ポール・ゴーギャン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Hkoki (会話 | 投稿記録)
m 地名をタヒチ語発音に直しました
132行目:
 
=== 2度目のタヒチ滞在 ===
[[File:Agostini - Tahiti, plate page 0080.png|thumb|250px|ゴーギャンのタヒチ・ピュッアウイアでの家(1896年撮影)。]]
ゴーギャンは、[[1895年]]6月28日、再び[[タヒチ]]に向けて出発した。一つの原因は、『[[メルキュール・ド・フランス]]』誌の1895年6月号に、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]と{{仮リンク|カミーユ・モークレール|en|Camille Mauclair}}がそろってゴーギャンを批判する記事を書いたことにある。パリで孤立したゴーギャンは、[[タヒチ]]に逃げ場を求めるほかなかったといわれている<ref>[[#Thompson|Thompson (2010: 185-86)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 209-10)]]。</ref>。
 
同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどを、[[パペーテ]]周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録は余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕な{{仮リンク|ピュッアウイア|en|Puna'auia}}地区に家を建て、広大なアトリエを構えた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 215)]]。</ref>。
 
好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。『メルキュール・ド・フランス』誌を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 214-15)]]。</ref>。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌''Les Guêpes''(スズメバチ)誌に寄稿し、更には自ら月刊誌''Le Sourire''誌(後に''Journal méchant'')を編集・刊行するようになった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 232-35)]]。</ref>。[[1900年]]2月には、''Les Guêpes''誌の編集者に就任し、[[1901年]]9月に島を去るまで続けた。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴であったが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 233)]]。</ref>。
149行目:
ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた<ref>[[#Danielsson1969|Danielsson (1969: 18)]]。</ref>。また、印刷機がなかったため、{{仮リンク|モノタイプ|en|monotyping}}を使わざるを得なかった。
 
ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナッアウイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 182)]]。</ref>。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った<ref>[[#Danielsson1965|Danielsson (1965: 228)]]。</ref>。
 
<gallery>
164行目:
ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた<ref>[[#Danielsson1969|Danielsson (1969: 18)]]。</ref>。しかし、実際にマルキーズに行ってみて分かったのは、ここも、タヒチと同様、文化的な独自性を既に失っているということだった。太平洋の島々の中でも、マルキーズは、最も西欧の病気(特に[[結核]])で汚染された島々だった。18世紀には8万人いたという人口は、当時4000人にまで落ち込んでいた<ref>[[#Danielsson|Danielsson (1965: 25)]]。</ref>。
 
ゴーギャンは、[[1901年]]9月16日、[[ヒバ・オア島]]に着き、アトオナの町に住み始めた。アトオナは、マルキーズ諸島全体の政庁がある所で、パペーテよりは開発が遅れていたが、パペーテとの間で汽船の定期便があった。医師がいたが、翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のングエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった<ref>[[#Danielsson|Danielsson (1965: 236, 249-50)]]、[[#Mathews|Mathews (2001: 235-36)]]。</ref>。
 
ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 239)]]。</ref>。
203行目:
ゴーギャンは、翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬された。[[1973年]]、彼の遺志に従って、『オヴィリ』のブロンズ像が横に置かれた。皮肉にも、ゴーギャンの墓の一番近くに埋葬されているのは、マルタン司教である。
 
ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届かなかった。遺言はなく、価値のない家財はアトオナで競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日にパペーテで競売にかけられた。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまったと指摘されている。メット・ゴーギャンが競売の売上金を受け取ったが、およそ4000フランであった<ref>[[#Mathews|Mathews (2001: 255)]]。</ref>。
 
== 後世 ==