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'''愛新覚羅 胤{{補助漢字フォント|礽}}'''(あいしんかくら いんじょう、[[満州語]]:{{mongol|ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ<br>ᡞᠨ ᠴᡝᠩ}}、転写:Aisin-gioro In-ceng、[[1674年]]6月6日 - [[1725年]]1月20日)は、中国[[清朝]]の皇族。[[康熙帝]]の第2皇子。理密親王。名は[[雍正帝]]の即位後に'''允{{補助漢字フォント|礽}}'''と改めている。
== 生涯 ==
[[File:Crown_Prince_Yinreng.jpg|thumb|right|胤{{補助漢字フォント|礽}}]]
康熙帝の最初の皇后である[[孝誠仁皇后]]の男子として生まれるが、母は難産で死去した。胤礽はわずか2歳にして[[皇太子]]となり、母方の大叔父に当たる[[ソンゴトゥ]]が権勢を得ていたこともあり、周囲の期待の下、英才教育を受け成長した。しかし、康煕帝が病気でもその容態を心配せず、また帝位の奪取を謀ったり謀反人を庇護しているなどといった風評から、次第に父帝の信頼を失い、警戒心を持たれていった。[[1703年]]にソンゴトゥがクーデターで失脚すると政治的にも後ろ盾を失い、孤立の度を深めていった。
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