「堀内氏善」の版間の差分
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]初期
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])<ref>[[天文 (元号)|天文]]8年([[1539年]])生とも伝わる。</ref>
| 死没 = [[慶長]]20年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]([[1615年]][[5月7日]])<ref>[[慶長]]14年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[1609年]]
| 改名 = 楠若(幼名
| 別名 = 熊千代、新次郎、氏義
| 諡号 =
| 戒名 = 笑翁
| 墓所 = [[熊本県]][[宇土市]][[三宝院]]<br />[[長崎県]][[南島原市]][[安楽寺]]
| 官位 = [[安房国|安房守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[加藤清正]]
| 藩 = [[熊本藩]][[宇土城|宇土]][[城代]]
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| 兄弟 = [[堀内氏高|氏高]]、'''氏善'''
| 妻 = 正室:[[九鬼嘉隆]]の養女
| 子 = [[新宮行朝]]、[[堀内重朝|重朝]]、[[堀内氏久|氏久]]、[[米良道慶]]、
| 特記事項 =
}}
▲'''堀内 氏善'''(ほりのうち うじよし)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[熊野水軍]]の将。
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])、[[堀内氏虎]]の子として生まれる。[[幼名]]は'''楠若'''と伝わる。[[堀内氏]]は
はじめ、[[熊野]]を領し堀内氏と対立していた[[熊野有馬氏]]が
天正4年([[1576年]])、[[織田信雄|北畠信雄]]と当時[[志摩国]]であった[[三鬼城]]、[[長島城 (紀伊国)|紀伊長島城]]を巡って争ったが(『[[勢州軍記]]』)、天正9年([[1581年]])には
▲はじめ、[[熊野]]を領し堀内氏と対立していた[[熊野有馬氏]]が、内紛により衰退し当主・[[有馬孫三郎]]が子なく死去していたため、氏善は養子に入ったが、[[天正]]2年([[1574年]])、父・氏虎の死後、早世した兄・[[堀内氏高|氏高]]の跡を継ぐかたちで、[[新宮城]]主となる。そのため、熊野有馬氏は断絶した。
信長の死後、天正10年([[1582年]])の[[山崎の戦い]]において、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に属して7,000石を加増されたという(『朝野雑載』)。その一方で紀伊国北部に侵攻し、[[中村山城 (紀伊国)|中村山城]]などを攻め落とした。また、志摩国[[英虞郡]]の荷坂峠以南を紀伊国[[牟婁郡]]に編入したため、現在の[[三重県]][[尾鷲市]]と[[紀北町]]、[[大紀町]]の錦地区が紀伊国の一部となった。▼
▲天正4年([[1576年]])、[[織田信雄|北畠信雄]]と当時[[志摩国]]であった[[三鬼城]]、[[長島城 (紀伊国)|紀伊長島城]]を巡って争ったが(『[[勢州軍記]]』)、天正9年([[1581年]])には、[[織田信長]]から知行として熊野社領分を与えられ、[[織田氏]]に仕えるようになったという。
秀吉の[[紀州征伐]]に対して当初、抵抗の姿勢を示したが、天正13年([[1585年]])には降伏して本領を安堵された。紀州平定後の[[検地]]に反対する[[地侍]]や[[農民]]の[[一揆]]には、秀吉方として一揆の討伐に参加している。その後、[[四国攻め]]や[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役]]([[晋州市 (慶尚南道)|晋州]]攻めや[[蘇州古城]]守備に574人を動員)に[[熊野水軍]]を率いて従軍し活躍、天正19年([[1591年]])には
▲信長の死後、天正10年([[1582年]])の[[山崎の戦い]]において、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に属して7,000石を加増されたという(『朝野雑載』)。その一方で紀伊国北部に侵攻し、[[中村山城 (紀伊国)|中村山城]]などを攻め落とした。また志摩国[[英虞郡]]の荷坂峠以南を紀伊国牟婁郡に編入したため、現在の[[尾鷲市]]と[[紀北町]]、[[大紀町]]の錦地区が紀伊国の一部となった。
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、[[石田三成]]の勧めで
▲秀吉の[[紀州征伐]]に対して当初、抵抗の姿勢を示したが、天正13年([[1585年]])には降伏して本領を安堵された。紀州平定後の[[検地]]に反対する[[地侍]]や[[農民]]の[[一揆]]には、秀吉方として一揆の討伐に参加している。その後、[[四国攻め]]や[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役]]([[晋州市 (慶尚南道)|晋州]]攻めや[[蘇州古城]]守備に574人を動員)に[[熊野水軍]]を率いて従軍し活躍、天正19年([[1591年]])には、熊野惣地に任命された。
その後、西軍への加担は消極的であったとの理由で許され、[[肥後国]][[熊本藩]]主・[[加藤清正]]に仕えて2,000石を知行し、[[宇土城]]の[[城代]](慶長17年に城が破却され任を解かれる)
▲[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、[[石田三成]]の勧めで[[牟婁郡]]8万石と引き換えに義父・[[九鬼嘉隆]]と共に西軍に属し約350を率いて[[伊勢国|伊勢]]へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電し、同年10月には居城・新宮城も東軍に属す[[和歌山城]]主・[[桑山一晴]]に攻め落とされ所領を失ったため、天正16年([[1588年]])の[[北山村|北山]]攻めの際に築いた[[京城 (紀伊国)|京城]]に落ち延びたが、紀伊国・加田村に蟄居した。
▲その後、西軍への加担は消極的であったとの理由で許され、[[熊本藩]]主・[[加藤清正]]に仕え2,000石を知行し、[[宇土城]]の[[城代]](慶長17年に城が破却され任を解かれる)となったが、慶長20年([[1615年]])に[[熊本城]]で病死した。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『[[寛政重修諸家譜]]』第4輯、国民図書、1923年、1007頁。
== 関連文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=播磨良紀|title=堀内氏と那智{{mdash}}戦国・織豊期の紀南支配を通じて-|year=2001|journal=和歌山地方史研究|issue=41|publisher=和歌山地方史研究会|ISSN=0285-7278|pages=pp.3-13}}
{{DEFAULTSORT:ほり
[[Category:1549年生]]▼
[[Category:
[[Category:戦国武将]]
[[Category:水軍]]
[[Category:文禄・慶長の役の人物]]
▲[[Category:熊野有馬氏|うしよし]]
[[Category:紀伊国の人物]]
▲[[Category:1549年生]]
[[Category:1615年没]]
[[Category:新宮市の歴史]]
[[Category:和歌山県の歴史]]
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