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{{基礎情報 武士
'''伊東 祐勝'''(いとう すけかつ、[[元亀]]元年([[1570年]])<ref group="注釈">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110では祐勝の生年は永禄12年([[1569年]])</ref>、 - [[文禄]]2年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1593年]][[7月12日]])<ref group="注釈">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238では祐勝の没年は文禄3年([[1594年]])</ref>、)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[伊東氏]]の家臣。[[伊東義益]]の次男<ref name="戦国人名事典110">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110</ref>。母は[[一条房基]]の娘・阿喜多。兄に[[伊東義賢]]。小右衛門(尉)を称した<ref name="戦国人名事典110"/>。
| 氏名 = 伊東祐勝
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[元亀]]元年([[1570年]])<ref group="注釈">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110では生年は永禄12年([[1569年]])</ref>
| 死没 = [[文禄]]2年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1593年]][[7月12日]])<ref group="注釈">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P238では没年は文禄3年([[1594年]])</ref>
| 改名 =
| 別名 = 小右衛門(尉)<ref name="戦国人名事典110"/>
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 = ジェロニモ(ゼロニモ<ref name="戦国人名事典110"/>)
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[大友義鎮|大友宗麟]]→[[伊東祐兵]]
| 藩 =
| 氏族 = [[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]
| 父母 = 父:[[伊東義益]]<ref name="戦国人名事典110">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110</ref>、母:阿喜多([[一条房基]]娘)
| 兄弟 = [[伊東義賢|義賢]]、'''祐勝'''、[[伊東祐兵]]正室
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
 
'''伊東 祐勝'''(いとう すけかつ)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[伊東氏]]の家臣。
 
== 略歴 ==
父・[[伊東義益]]が[[永禄]]12年([[1569年]])に病死したため、祖父・[[伊東義祐|義祐]]によって養育された<ref name="戦国人名事典110"/>。[[天正]]5年([[1577年]])に伊東氏が没落すると母の縁者である[[大友義鎮|大友宗麟]]の保護を受けた<ref name="戦国人名事典110"/>。[[天正]]8年([[1580年]])に[[大友義鎮|大友宗麟]]の影響を受けて[[キリシタン]]となり「ジェロニモ」(ゼロニモ<ref name="戦国人名事典110"/>)の洗礼名をもらう。また安土(現・[[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]])の[[セミナリオ]]に留学し、[[天正遣欧少年使節]]の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された(『イエズス会日本通信』)。
 
天正15年([[1587年]])、[[豊臣氏]]による[[九州平定]]後、叔父・[[伊東祐兵]]が[[飫肥城]]に復帰すると帰参した。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では、兄・[[伊東義賢|義賢]]や叔父らと[[朝鮮]]に出兵するも病気となり帰国。その途中で船が暴風雨に襲われ[[長門国]]まで流されてしまい、同地で病状が悪化し死去した<ref name="戦国人名事典110"/>。享年24。没月日には「[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]」説もある。
 
天正15年([[1587年]])、[[豊臣氏]]による[[九州征伐]]後、叔父・[[伊東祐兵]]が[[飫肥城]]に復帰すると帰参した。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では、兄の義賢や叔父らと[[朝鮮]]に出兵するも病気となり帰国。その途中で船が暴風雨に襲われ[[長門国|長門]]まで流されてしまい、同地で病状が悪化し死去した<ref name="戦国人名事典110"/>。24歳没、没月日には「[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]」説もある。なお、兄・義賢と前後して死去していることから、伊東祐兵との家督争いを防ぐために家臣により暗殺されたとする説もある(『日向纂記』巻7-9)。
 
== 脚注 ==